叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

学級崩壊は、進化の過程

学級で、苦しんでいる子がいる。

必ず、そこには「学級らしくあらん」として、奮闘しておられる先生や、

そうなるように願っている保護者が、いるであろう。



皮肉なことに、担任が

「学級らしさ」を追及するために、まさにそのために、

苦しむ子どもも、存在する。



「学級らしさ」を追い求めるとき、ほとんどは、担任が児童に、

正しい子どもであれ

と要求するようになる。

もとから、正しく、子どもである、にも関わらず。



すでに正しく子どもである子どもに、

「お前は正しい子どもではない」というまなざしを向けて、

「変われ」

というメッセージをおくるようになる。

「お前は正しくない。おまえを認めない」

という宣告なのです。




そこから逃げ出したくなる、という子がいる以上、それを無視して、

担任が、担任の思う「学級らしさ」の階段をのぼりつづけるわけにはいかない。



となると、実は、いわゆる学級から一歩抜け出そうとする過程の中に、

一見してみると、「学級崩壊」のように見える状態が、出てくる可能性がある。

それを見咎めて、校長や保護者が、

「学級崩壊だから、良くない」

と断じてしまうのは、もったいない気がする。





そう考えると、学級崩壊は、進化の過程ともいえるかと思います。

対話の始まりであり、お互いをしっかりと見る、知る、ということの最初でしょうね。

両者がしっかりと向き合ったとき、学級崩壊は、

まぼろしのように、スーッと消え去るはず。

もともと、ただのイメージであったので、かんたん、です。



稲の朝露(あさつゆ)

日本男児の生き方

兵隊をいかに「殺人集団」に仕立て上げていくか、という文章を
読んだことがある。


米軍の心理カウンセラーが書いた本。

ポイントは、

なにも考えさせないこと。

やれ!

と言われたら、

ハイ!

と、すぐに大声で、返事をし、身体を即座に動かせるように訓練するそうだ。

これを、徹底的に繰り返す。


機械的に、反射的に、とっさに何も思考せず、余計なことを思わず、

すぐに身体が反応できるようにしていくことで、殺人が可能になる。

「殺せ!」
「ハイ!」




なんで、そんなことを思い出したかというと、

ふだんはちっとも本など一切読まないのに、

小学校で英語が始まるので、準備するため、

なにかヒントになる本がないだろか、と久しぶりに本屋に行ったら、

「男20代にしておくべきこと」
「男30代、やっておかないと後悔すること」
老いてもなお男の美学を」
「人の上に立つ成功戦略」
「勝つための男のコミュニケーション」
「歴代武将に学ぶ人生設計」

という感じの本が、大量に並んでいたからです。


え、こんな本があるの!?


とびっくりしながら、おっかなびっくり手に取って、最初の方をパラパラとめくると、

なんとまあ、どれもこれも、この手の本は、すべて

命令調

なのであった。

「できる男になりたきゃ、〇〇しろ」

という感じ。



マゾ様仕様にも程がある!!


これを読んだ読者は、命令ばかりされるんで、

余計に、劣等感が増していくんじゃないの?

と、ちょっと不安になった。



命令されて、それを受け入れる、というパターンで、

戦争が始まったと考えると、

「共にさぐる」

「いっしょに考えていく」

「考えていく仲間になりあう」

というのでは、戦争は無理なんだろうね。


単純に、

えらい人が 命令をして それを受け入れる

という文化がなければ、やはり人を殺す現場では、役に立たないのだろう。

そもそも、自分の命を捧げたくなるほど、えらい人がいないといけない。



まずは、本屋に並んでいる、こういった命令調の、

「男はこうしろ!」

という文体の本を、読まなければならないほどに、

あるいは、読んだ結果、「そのとおりにしなければならない」というくらいに

追いつめられた男を、社会的に『生み出さない』ことが大事だ。




フーテンの寅さんのような男が、

男はつらいよ

と言えるのが、日本のよいところ。



「やれ!」

と言われたら、

「ハイ!」

と言う代わりに、隣のタコ社長をみながら、

「そんな必要、あるのかねえ」
「おいちゃん、難しいことはよくわかんないけれどもさ」

男はつらいよ!」

というのが、いいんじゃないの。

その方が、日本人には合ってる気がするな。

とら

バタフライ効果とエビフライ効果

NHKの「ピタゴラスイッチ」の、終わりかけの部分がテレビ画面に流れていて、

急に部屋に入ってきた息子が、

「あ、レコードがまわっとる」


↑ 途中のプロセスは全部、すっとばして、結果だけ見ると、こうなる。


最初と最後だけ見ると、どう思うかというと、

「ボールを入れたら、レコードが回った」



たしかに関連はあるはずなんだけど、

途中にある坂道が、あの角度だったから、とか

うまい具合に、ドミノが倒れてくれたから、とか

ひもの長さが、ちょうど木の板にあたって、板を倒すことができたから、とか

玉が転がりすぎないで、ちょうど穴に入って落ちてくれたから、とか

そういった、複数ある途中のプロセスには、目を向けず、

最初と最後だけをくっつけて、

「ボールを入れたら、レコードが回った」

と言い切ってしまうと、

なんだか急に、バタフライ効果のような、ゆらゆらした、めまいのような幻惑を感じることになりますナ。

いやいや、板とか、いっぱい倒れたからやで!!




バタフライ効果、というのは、ご存知のように、

「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」

というものであります。

ブレーズ・パスカルが『パンセ』に記述した、

クレオパトラの鼻が低かったら、大地の全表面は変わっていただろう」

という格言も同じような発想に基づいたものと言えましょう。



すべからく、すべての物事は関連しあっているのは当たり前として、

Bすれば、Aになる。

という言い方は、ピタゴラスイッチの、最初と最後だけしか見ていない場合に

よく当てはまる。

こういうふうに、他の要素を抜きにして、とりあえず

分かりやすい要素だけを特に抜き出し、単純化して把握していこうとするのは、

シンプルを好む、人間の知恵の一つと言えましょう。



学校の長い廊下の端に、

「走るな!危険」

と書いた看板を立ててありまして・・・。

ずいぶん以前にお勤めでいらした先生の発案で、置かれたものです。

今年になって、新しくこの学校に来られた先生が、

「あそこは人通りも多いし、看板を外してもよいのではないでしょうか」

と職員会議で提案をしました。


ところが、昔から居る先生は、どう感じたかと言うと、

「あの看板があるから、子どもたちがあそこを走らないで歩くようになった。

効果が上がっているのだから、外さない方がいい」

でありました。


看板があると、子どもは廊下を歩くようになる。

Bすれば、Aになる。



本当にそうでしょうか。

見ているのは、ピタゴラスイッチ装置の、最初と最後だけ。

これを、ピタゴラ識(しき)と呼んでいます。

視野に入らない世界





子どもに、なんで廊下を走らないの?と聞くと、

高学年の女子は、こう言ってました。

「え?だって、疲れるから・・・」

看板があることを伝えると、

「え?そんな看板、ありましたっけ?・・・ああ、あそこのやつ!・・・あれ、そんなこと書いてあったっけ。忘れとったー。とりあえず、邪魔だからよけて歩いてるけど。何が書いてあるかなんて、ふだん見てないし」

これを、エビフライ効果、と呼びたい。

エビの身の大きさとは比較にならないほど、大きな天ぷら粉の衣(ころも)をつけて、実態よりもはるかに大きく見せることで、真実を見えなくさせる効果のこと、つまり、

事実が見えなくなることを、エビフライ効果、と呼んではどうか。




この場合の正しい語句の事例としては、

バタフライ効果を信じたあげく、エビフライ効果に陥る」

というものがあります。どうぞ、ふだんから日常生活の中で、

バタフライ効果とエビフライ効果

セットでお使いください。

人としてもっとも必要とされる存在とは

お地蔵様に傘がかぶせてあって、

おまけにきれいに掃除がしてあって、

そのうえ、美味しいものがお供えしてあると、

そこを通りがかって見る人のほとんどが、

なにかしら、ほこっとした温かさと、安心感を覚えるのではないかと思う。



どんな知らない土地であっても、

この土地のお地蔵様がこんなふうな扱いを受けているとなれば、

旅人は、たとえ信仰心がなくても、

「ここは安心できる町だ」

と思うのではないだろうか。





学級の仲間にとって、Sくんは、お地蔵様のような子でありましょう。

Sくんに、無理やりに、なにかをさせることはできないですから。



そのSくんが、安心して、教室でくつろいでいるときは、

他の子も、無条件に、教室が安心できる空間になっている。

Sくんがそこに、にこにこと佇んでいるだけで、

あたりを、「安心」という空気が、あったかく包み込んでいる。



ぼくは幸せだあ



Sくんが、そんな顔をしているように見えるときは、

教室の中の、どの子も、

ぼくだって幸せや

と思っていると思う。



Sくんの目が落ち着かないとき、

それは、担任の先生が、Sくんを、落ち着かない目で見ている時で、

Sくんの目が落ち着いているときは、きまって、

担任の先生が、落ち着いてSくんを見ている時だ。



Sくんの目は、

「自分がどう見られているか」

を、正直に示している。




この人は、ぼくに危害を加えない。



Sくんが、そう思っていることが、

周囲のだれもに、感ぜられる。



そうすると、いかにも、

ここは平和の砦だ、

ということを、みんなが思い出す、という仕組みらしい。



Sくんが「世の光だ」ということが、このことからも、よく分かるネ。

ojizousan

我々が包み込まれている価値観の枠ぐみ

現代では、見かけよりも中身が大事、と言うことになっている。

だから、いかに見た目が美しくて、

精巧な技術で、ち密に磨き上げられ、

ピカピカと輝くようなガラスや水晶も、

ダイヤモンドに比べたらその価値はほとんどない、ということになっている。



ところが、ある人はガラスの指輪を持っていて、

精密にカッティングされた工芸品に、

なんどもため息をもらし、なんどもその美しさを称えて、

満足しきって、これまで暮らしてきた。

そんな話を聞くと、それがたとえガラス玉だといっても、

その美しさに、価値がなかった、というわけではあるまい。




見た目が美しい(と思うこと)にも、たいへんな価値が、ある。

そしたら、いちいち、そのことに満足している人たちに向かって、

「それ、中身はガラスだから。ダイヤのニセモノだから」

なんて、言わなくてもいいんじゃない?

ニセモノだろうがなんだろうが、断然、美しいと思ってるわけだし、

アクセサリー、というジャンルでは、

それこそ、きれいなビーズ、ガラス、水晶が、

きちんとした素材でもあるんだから。




化学的な原子構造がきちんとダイヤモンドである、ということにしか、

価値はないのだ、という言説、だれが広めているのだろう。

もしかしたら、ダイヤモンドを売ってる会社?



ダイヤモンドを売る会社の人からしたら、

「所詮、イミテーションに過ぎぬわ!」

「ダイヤの本物、ホンモノにしか、本当の美しさはない!あとはガラクタ!」

ということを、世の中の全員に、信じ切ってほしいでしょうナ。




われわれは、どうやら、外見よりも中身が大事、という文化なんでしょう。

それは一方で、とても良いことのように思えますが、

しかしまた、

周囲も必ず同じふうに考えてくれなくては、困るため、

「中身にこそ、価値があるのだ!」

と、ずっと、ずーっと、声高に主張し続けなければならないのだとしたら、

なんだか、それはちょっとばかり、胡散臭さを、どこかに隠し持っているようで・・・。




「いいの。ガラスでも、綺麗だから」

「私は、これが好き!」

と、明るく言い切っちゃう人ばかりになったら、

『本物証明』に価値を置こうとしてたダイヤモンドの会社は、困るのか・・・。

まぁ、べつに困らないか。

ガラスが美しいと、ダイヤモンドが汚れちゃう、というわけでもない。




結局、カチって、なんなのか?

「ここに価値がある!」と叫ぶとき。

みんなが本当に心底、自由な感じにふるまうような社会になってきたら、

どう変わるんだろうか。


yubiwa_diamond

教師の暴言

教師の暴言があった、ということで、テレビ報道されている。

所沢市の教師が「窓から飛び降りろ」

沖縄の教師が「脳みそをつかえ」


両方とも、命令調だということになっている。

これは、教師の叫びだ、ということは、明らかでありましょう。

教師の、悲鳴であります。



たぶん、相当な、プレッシャーを受けている。

逃れたい、逃れられない、そんな悲鳴です。

わたしは自分が教師だから、その苦しさが、なんだかよく分かる。

せつないねえ。



教師が逃れたいと思っているのは、なにから?

それは、「責められることの不安」でしょうナ。

子どもにいくら要求しても、頼んでも、願ってみても、

通じないので、だんだんと焦ってくる。

校長にどう思われるだろう、保護者にどう思われるだろう。

不安が大きくなり、子どもを変える、それしか考えられなくなる。

ブラック企業で、追い込まれた社員と同じです。

自分でも、他の方法も何も見えなくなり、

そのことだけが重大に思えてきて、どうしようもなくなる。

だから、悲鳴をあげているのでしょう。






大人が悲鳴をあげるという点で、すでに

この学級は、学級らしくない、ですね。

大人目線の学級らしさを追及しようとしても、

実はそこにいるのは、小学生ですから。

小学生のつくる、学級なのですから。

大人目線の学級らしさと、

子ども目線の学級らしさが、

違うのかもしれない。

小学生の学級に、大人の悲鳴は、要りません。




ところが、世間は、大人目線での学級を要望する。

教師は、それをつい、「忖度」したくなる。

だから、掲示物はすべて、折り目正しく、縦横90度、すこしのズレもなく、ぴったり貼られ、

机の角までぴったりと揃えられて、落書きも無く、わけのわからない粘土の作品もなく、

おしゃべりもなく、間違いも無く、なんにもないのが、尊ばれていくわけね。

ところが、現実の子どもっていうのは、そうはならない。


P9131343

感情表出と感情処理の仕方をリセットする

行き過ぎた感情を、処理する方法。

感情をどうするか、というの、

とくに誰かから、教わったり、習ったりしたことがない。




子どもたちと話していても、

「むかつくから」、「イライラしたから」、「カッとなって」、

というような言葉が、出てくる。

こういう種類のフレーズしか、習っていないからかも、と気づいた。




よく聞く、「つい、カッとなって」、というやつ。

こんなの、よく表現できたなあ、と感心してたら、ハッと気づいた。

これ、自分で考えた表現じゃないわ。どっかで、読んだり、聞いたりしてるわ。





ためしに、身近な人間に、

「ねえねえ、ついカッとなって、〇〇しちゃった、という表現あるでしょう?」

と聞いて回った。

「その表現って、言うことある?これまで、言ったことある?」

すると、みんな、

「あるよ」

と言う。



そこで、

「その、ついカッとなって〇〇しちゃう、みたいな文章って、自分で考えたの?」

と聞くと、

「いいや。どっかで聞いたり、読んだりしたのだと思う」




つまり、この、

「つい、カッとなって、〇〇しちゃう」

という文章表現って、どこの誰が考えたかしらんけど、

長きにわたって、日本の中で、ずいぶん流行し、使われてきた、ということらしい。

流行語大賞がとれる!


これ、表現、とか言い方、という問題ではないな。

頭に来たときの感情の処理の方法なんだ。

頭にきたら、何かに当たる、というの。

「そうするものだ」と、刷り込んでる。

その「刷り込み」が、具体的に、後々の世代へと、

きちんと受け継がれて行っている、ということ。

まさに、『言霊(ことだま)』、と言っていいレベルで。



つい、カッとなったら、数える、という人はあまりいない。

というのは、日本語ではまだ、

「この間、ついカッとなってしまって、数を数えたよ」

という文章表現が、人々の人口に膾炙してないからだ。



一度、日本人全員で、流行させてみたらいいと思うね。

別なパターンを。

カッとなったら、

数える、とか、散歩する、とか、甘いもの食べる、とか。

そしたら、

「ついカッとして、〇〇しちゃった」というのが、ふつうである、
と思い込んでいたところに、ちょっとした変化が起きる・・・かも。




我々は、ふだん使われてきた日常のフレーズから、

言霊にあやつられるようにして、

「これが当たり前だ」 「これが男(女)らしいのだ」 「これがあるべき姿だ」 というように、

これが正しい、とされる感情表出と感情処理の仕方を、学んできているようだ。




いったん、そこをぶちこわすのが、これからの道徳教育、ということになっていくだろうネ。

似顔絵2