叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

悪口(わるくち)のこと

わが学級にも、悪口はあります。

とくに、まだ人間関係ができていっていない時期、1学期はありますね。

6月中旬くらいで、ずいぶんと静かになり、

「おや、どうも最近は聞かれないな」

となる。

子どもたちどうしの人間関係も落ち着き、クラスの授業の雰囲気や、進め方や、

お互いの性格、ポジション、好みなどが分かってきて、6月中旬ごろ、子どもたちは

「ちょっとひとまず、これでいいかな」 と思うのではないだろうか。



それでもたまに大喧嘩などがある。

すると、久しぶりだから、燃え方がちがう。

「死ねーーーッ!!」

「おまえ、うぜぇーーーッ!!」

と、さんざんやり合うが、これはまあ、ふつうの大人の人ならたまげることでしょう。

なぜならふつう大人になると、ここまでひどい悪口は、日常、言わないでしょうから。

子どもだからこそ。

こういうセリフを、言うのですよね。

大人になると、言わなくなるもの・・・。



わたしは、双方が悪口を言い合っていてもしかりませんが、これはもう、子ども自身が、

「相手をののしる」

ということについて、あまり楽しい感情をもたないから、

叱らないでも無くなっていくわけで、

ののしると、もうそれは、ひどい感情になりますよね。

泣きたくなるし、実際に泣くし、嗚咽するし、

泣きわめいたあと、周囲の友だちが、ちょっと距離をあけてくるし、

いいこと、なんもない。



そういうことを経験するというのは、まあ、ひとつは勉強なのでありましょう。

そして、相手をののしる、ということについて、みんなでまた、冷静になって、

その メカニズム というか、 からくりというか、

自分の感情がどうしてそう動くのか、

なぜそう思うか、そこで、どんな思いが湧き上がってくるか、

さびしい気持ちや、わかってほしいという切実な思いを、

見直していきます。


実際に、派手なけんかが起きたときが、

人間関係を深める、とってもよいきっかけになることは多いです。


そして、見直してみると、

その悪口が、とても自分の口から出た物だとは、思えないくらい、

自分から離れて、なんとなく空中にぷかんと浮いた、

寂しくて悲しい、愛おしいものに

見えてくるそうです。(子どもの日記から)

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しつけのむずかしい時代

保護者会などで、よくスマホのゲームとか、テレビゲームのことが話題になる。

よく言われるのが、

「学校の方で、一律に、ルールを決めていただきたい」

というもの。

つまり、家で子どもを叱るときに、

「ほら、学校でもルールで決まっているんでしょ!」

といって、ゲーム機やスマホをとりあげやすいから。




昔は、こんなことで、あまり苦労しなかったと思うね。

なぜなら、わたし自身を振り返れば、よく母親が言うのは

「金がないから、無理」

というセリフでありまして、

それ以上の理由も説明も、なにもない。

べつに、それで躾をしよう、と意図したわけでなく、

「そんな金、どこにある。新しいものは要らん。無理、無理・・」

と言っておれば、うまいこと躾けられた(ような雰囲気になった)のではないかと思う。

隣近所も、なにかそんな雰囲気だったから、まだまだそれでいけた。

今のように、ほとんどの人がスマホを持ってる、という時代とはちがったのです。




・・・ということは、現代のお母様方が悩んでいらっしゃるのは、時代のせい、かも。

お母さんたち自身に、躾の能力があるとかないとか、そんなことではなく、

昔の母親がいちいち考える必要のなかった、

スマホやゲームのルール作りなどまで、自分でしなければならなくなったからです。



家庭で考えていかなきゃいけない諸問題が、多すぎる!

これが、今の世の中が採用する「子育てシステム」の、つらいところ。

今のお母さんたちは、それでかなり苦労している。

一人ひとりのお母さんの、キャパを超えているでしょ?

新しい時代の、新しいしつけ、新しい子育て、

新しい社会を見越しての助言など・・・こりゃ大変だよ。



それを、すべてのお母さんが一人でこなしていくなんて、

超難関な事業です。

苦しいのは、母のせいじゃ、ない。

ひとりのお母さんだけで、「現代版子育て」なんてできるものじゃない。



世の中が変わっているのだから、

社会全体の子育てのシステムも変えたらいいはず。

どうやら、

「伝統的な価値観での子育て」では、

無理、という時代に


なってきているようです。


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残業0(ゼロ)に賛成!

残業0(ゼロ)というのが、いちばんいい。

今の社会の仕組みの中では、核家族が多いからね。



子どものまわりに、大人はやっぱりいた方がいい。

それも、ゆっくりとした大人がいて、

なんとなく「静養」している雰囲気がいい。

忙しそうで、不機嫌でいる大人を見るのは、

子どもにとっては楽しくない。



だから、わたしは、残業0(ゼロ)に賛成。

残業代0(ゼロ)には、反対。




しかし、これ、社会のしくみが、どう変わっていけば、

残業が0(ゼロ)になるんだろうか?



現代は、お母さんが子育てのプレッシャーをずいぶん感じている時代。

子どもが言うことを聞かない、というので、お母さんが焦燥する姿を何度もみてきた。




そりゃそうだ。一人で子育ての責任を一気に背負わされている感じがあって・・・。

きっと、母親をゆるさない社会は、子どもを許さないし、父親さえも許さないのだ。





残業がなくなって、父親がすぐに家に帰れば、母親はうれしい。

父親がゆっくりしているのを見るのは、子どももうれしい。




親が不機嫌だと、

子どもは、意味が分からなくなる。

その「不機嫌」の正体は、ナニ?

ぼくのせい?



機嫌良く、早く帰ってきてほしい。それだけで、すべて満たされる。

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【小学校の教室の研究】あなたのための空間

人が複数いたら、利害関係が生まれて、一致しないから、
争いが起こるのではないか。

教師になる、ずっと以前から、私の頭にあった疑問です。

A君のための場であることが、Bくんのための場であることと、なんら矛盾しないのかどうか。

これは、AくんとBくんがちがう人間である、という『ユニークさ』が、それを両立させるのでしょう。

生物学の本など読むと、どうもそう思われてきます。


これは、簡単なことですが、Aくんのための場であればあるほど、Bくんのための場になるわけです。

教室には、離席する子もいれば、しない子もいます。

そして、双方が、それを邪魔とは思わないのです。

「ちっとも邪魔にならない」

というのが、ひとつのポイントだと思うようになりました。

そういう、おたがいの、間柄なのですよね。




では、なぜ、そうなるのでしょう。

ここは、あなた(わたし)のための、空間。



小学校の教室は、そこが決まっているから、ということなのだろう、と思います。


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小学校の教室の研究【みんなといる楽しさ】

子どもたち、朝から、なんとはなしに、タノシイ、ようである。

これが、なぜなのか、わからない。

たぶん、居心地が悪い、と感じている子がほとんどいないからだろう。


ところが、わたしとしては、算数をたくさんさせるし、宿題をチェックするし、

どんどんと当てるし、作業させるし、授業の進め方は他の先生よりも忙しいようで、

学校がきらいに思う子も、中には実はいるんだろう、と思う。



ところが、なんとなく、教室は、タノシイ。

これは、友だちがいてくれる、そのおかげでありましょう。

仲の良い友だちが、いっしょになって励んでくれるのであれば、

むずかしい算数もやる気になり、宿題もまあ、やってこようと思い、

みんなで答えを確認しあって、

「あってたー」
「うぎゃー、ちがってたわ」

と言い合うのも含めて、宿題もそんなには苦にならないようである。


「先生、黒板に書くスピードが速すぎるよ」

という子もいるが、

「これは6年生レベルのスピードだったな。みんなは4年生だから、ちょっとゆっくりにするか」

というと、

「あ、ゆっくりにしないでいい。6年生レベルでやろう」

こういうのは、いったい何だろう、と思う。




それとか、

「宿題やだー!!」

と言いながら、

「でもやっぱ、宿題、出して」

と言うのは、なんだろうか。



よく大人は、

「自分の本当の気持ち」

とか表現したりしますが。

宿題をやりたい、やりたくない、というのは、自分の気持ちのうちでも、

かなり表層の、薄皮の一枚、という感じだね。

そのもとにあるのは、

宿題をやらなきゃならない、と思っているか、そうは思っていないか、だね。




「先生、算数みんなで答え合わせするんだったら、もう1枚出して」

つまり、この子は、宿題をやりたいかやりたくないか、こたえはどちらでもない。

「みんなで、答え合せ」がやりたい。これが答え。

もっと言うと、

「あー、合ってたー。〇〇ちゃんも合ってたー。あ、つぎのはちがってたー、〇〇ちゃんもちがってたー。これ、むずかしいよねー」

というのがやりたいのであって、

「宿題がやりたいか、やりたくないか」

という、2つから選べ、じゃないのな。自分の本当の気持ち、というのは、ネ。


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【小学校の教室の研究】遊ぶ楽しさを知っている

子どもを見ていて不思議になってくるのは、

「あ、遊びにいこ!」

「うん!」

という会話があることです。

そして、一目散に、くつ箱へ行き、外に行くことです。



で、なんの打合せも無く。

そのまま、校庭へ行きます。

ともかく、走る。

で、息をはずませて、ハァハァ、と。

わたしがようやっと追いつくと、

「あ、先生も来たんだ」



大人は、こうはいきませんね。

「〇〇さん、話しかけてもいい?」

という許可の申請が入り、

「えっと、わたし今から遊びに行こうと思うんだけど、ご一緒しない?」

「ああ、いいですね。何しましょうか」

「そうですねえ。雲梯(うんてい)と砂場のところで、おにごっこでもしましょうか」

と、まあ、

大人なら、ぜったいに予定を立てるでしょ。

さて、そこから、

何をするのか、討議が始まる。

「そうねえ。おにごっこは疲れそうだから、ダンゴムシでも探しましょうか」

「ダンゴムシ、いるかなあ・・・いなかったら、どうしましょうか」

「いなかったら、砂場を掘って、トンネルをつくりましょう」

第二案、ときには第三案まで、用心深く、決定しておく。

「いいですねえ。トンネルをつくりましょう」

「そうしましょう、そうしましょう」

歩いて、ゆっくりと砂場に向かいます。

さて、砂場について、ダンゴムシを探しているとき、いろいろと思います。

「ほら、やっぱりいない。だからわたしは、鬼ごっこにしよう、と誘ったのに」

案の定、すぐに休みの終わりを知らせるチャイムがなり、教室へ帰ることになる。

(ああ、休み時間が、すぐ、終わってしまった)

(うーん、最初から、鬼ごっこにしておけばよかった)





子どもが、遊ぶ、というときの、遊ぶ、という状態は、たぶん、ともかく遊ぶ、ということだと思います。

いっしょになって、いっしょにいる、という状態です。

そのとき雲梯があれば、つかまるし、

たまたま砂場があれば、砂を掘り返す、という意味です。

なにかをしよう、と予定をたてて、スムーズに事を進めて、みんなが満足するように配慮しましょう、という世界ではない。

おかしいですね。お互いに配慮しようとすればするほど、満足が遠ざかっていくのです。大人の世界だとネ。

子どもは、まるきりそんな配慮しないけれど、全員が文句なし、です。

校庭の隅へ出かけよう、と思いついた時点で、一人ひとりが大満足なのです。


最初から、満足。

遊ぶ前から。

つまりは、子どもだけが、遊ぶことのホントの楽しさを、知っている、というわけネ。

宣伝です

これまでもたまに、講演をすることがありましたが、さ来週も、

愛知県の半田市で、親や保育者向けの講演会を行うことになりました。

 

わたし自身は、小学校の教員ですが、

子育て中の親や保育者の方に向けて、どんな話ができるか、

今からとても楽しみにしています。

 

今日は、ずっと講演会の中身を考えていました。

「叱らない子育てとは?」

というタイトルです。

 

ふだん、自分が暮らしている学級でみている世界について、

わたしは世界をどう見ているのか、話してみたいと思います。

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