叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

下の名前で呼ぶ、の価値

勤務校に、佐々木先生という先生が2名いらっしゃる。

すると、職員室で、

「佐々木先生!」

とは呼べない。

2名いらっしゃるから、どうしてもフルネームで声をかける。

「佐々木〇〇先生!」



そのフルネームが長いから、だんだんとみんな、

下の名前だけで呼ぶようになった。



このことを、なんとも不思議な感じがする、と、当の本人から聞かされた。

夏休みが終わろうとする今、なんとなく、職員室はしっとり、としている。
少しずつ、新学期のためのあれこれ、準備が始まっている。
しかしまだ、子どもたちが来ているわけではないので、まだ先生方に余裕がある。

すると、普段はそんなに話すことでもなかったようなことが、話題にのぼる。

「おれ、フルネームで呼ばれてるでしょう?〇〇先生って」
「ふんふん」
「それね、まだ全然、慣れないんだよね」
「ああー、そうですか」

その先生が言うのには、自分が下の名前で呼ばれる経験が、久しぶり過ぎて思い出せないくらいなんだそうだ。

「思い返してみればさー、おふくろに叱られてサ、これ!ユウタ!早くせんと!・・・なんて、叱られたときのこと覚えているくらいで、あとはずっと、名字ばかりだったから」

小学校でも、中学高校大学でも、ずっと

おい、佐々木!

と呼ばれ続けてきたんだって。

だから、他の人から下の名前で呼ばれると、すごく違和感があるんだって。

「ゆうた!って呼んでたのは、おやじとおふくろだけ、なんだよね。これまで」




佐々木ゆうた先生が、

「ゆうた先生」

と呼ばれているとき、

なんとなく、嬉しそうである。

こわもてで、一見すると、こわそうな先生なのに、

「ゆうた先生」、と呼ばれると、かわいい感じがする。

このまま、ずっと「ゆうた先生」と呼びたい気になる。

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みんな、「先生らしさ」と、戦っている。

先日の休みの日。

数人の若い先生と一緒に呑みましょう、ということに。

「さぁ、2学期だ、また、いっしょに頑張りましょうや」、と。

久しぶりに、いろんなことを話しました。





こうやって話してみると、いろんなことが見えてくる。

先生たち、みんな、「先生らしさ」と、戦っている。


実際には、得意分野、教科の志向、世代間の違いなど、分化した先生たちの姿がある。

先生も多様なのだ。

一人ひとり、教師は、世間の期待というものと、実際の自分を、いつも比べている。

そして、実は自分がそうではない、ということのうしろめたさのようなものも、隠し持っていたりする。

世間の中心に当然のように置かれた先生らしさ像に、「怖れ」に似た気持ちさえ、持っているのだ。



先生とは、テレビや新聞で語られる先生像だけではない。

実際の先生らしさ像は意外におもしろい。

貯蓄や投資に励む先生たちもいる。

実はゲイ、という先生もいる。

教師を辞め、転職しようとする先生、

休日は山にこもる、というアウトドアな先生、いろいろだ。



自分は、先生らしさの中心から、ほんの少しずれている、と分かっている。

だから、すこし、世間の目を忍んで、という意識がある。



飲み会では、絶対に、

「〇〇先生」 とは相手を呼ばない。

それが、教師の飲み会の最重要ルールだ。

店員さんから、

あの人たち、教員なの?

と、うしろ指を指されてしまうからだ。

教員が飲み屋に居る、ということだけで、顔をしかめる人たちもいる。



おそらく、日本中の先生が、みんな飲み会では気を付けていると思う。

先生は、素を明らかにしてはならない。

この意識が変わると、だいぶ楽になると思う。

先生も、世間も。

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意見感想しか、言えませン。

夏休みにテレビのニュースを付けると、ミサイルの話をしきりに放映していた。

こういうニュースがあると、わたしは憂鬱である。

なぜか。

学校が始まると、子どもたちが決まって、

北朝鮮がミサイル撃ってくるんでしょ!?」


というだろうから、である。




わたしは教師になりたての頃、このような時事問題を、

わりと詳しく、子どもたちに解説していた。

ああ、恥ずかしい。

ネットやテレビで見たことを、まるで、自分が知っているかのように。

さも、批評家、専門家気取りで。




ところが、今や、わたしは中年、もっというと

初老の年代に差し掛かり、

マラソンはおろか、子どもたちのサッカーの相手もくたびれて、

すぐに走るのをやめてしまうくらいだ。

だから、わたしはもう、時事問題の解説など、いっさい、しない。

北朝鮮がミサイル、撃ってくるんでしょ?!」

という子どもたちの挑発にも、一切応じない。

「ほぉ、そうなの?それ、自分でそう、思ったん?」

と、空をまぶしそうに見上げるだけだ。





ところが、子どもというのは、先生は何でも知っていると思い込んでいるらしい。

「先生、アメリカって、〇〇なんでしょ?」

「先生、日本って、〇〇なんでしょ?」

「先生、北朝鮮って、〇〇なんでしょ?」

初老にさしかかった私は、

「ほぉ、そうなの」

としか、言わない。



「へえ、いろんな意見があるのねえ〜」


あとは、

「もっとちがう意見、感想が言える人?」

と促していたらいい。

「いろんな意見や感想が出てきたねえ。よく調べた人もいて、感心しました。本当はどうなんだろうね?」



これまで受けてきた質問で、いちばん、心臓に悪い質問は、

「先生、日本って、戦争するの?」

である。

わたしは、驚いて

「えッ、やめとこ!」

とだけ、言っておきました。

それから、帰りの車の中で、

「先生って、こんな質問を受けるのか」

と、なんとも不思議な職業であることを、再認識致しました。





そういや、うちの子も、言ってたことがあるけどネ。

「戦争になるの?」

なんで、そう思ったかというと、テレビでそう言ってた、と。

マジな話なら、別の国へ行こう、と。





ミサイルねえ・・・。


親も先生も、事実は把握できないのでス。

意見感想しか、言えませン。


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努力と勝利に代わる言葉

暇なので、BOOKOFFに行ってきた。

すると、懐かしい漫画がたくさんある。

巨人の星」や「あしたのジョー」。

「キャプテン」に「ドカベン」。

だれが読むのかな、と思っていたら、やはり手に取るのは大人たち。

懐かしいのかもね。




今の子たちにとっては、難しすぎる。

ハードルが高い。

それも、心理的なハードルが。



スポーツ根性のストーリー。

今の小中学生からしたら、驚愕する世界だろう。

「こんなしんどい世界は、見たことが無い」と。

どこか、特別に遠い、非日常の世界だろう、と。




ところが、まだ我々が子どものころは、

根性と努力で難敵に立ち向かっていく世界が、

まだまだ自分たちの身近なストーリーだった。

「努力すれば、必ず・・・!」 というのが、生きていた。




週刊少年ジャンプの、発行部数が過去最低らしい。

世の流れ、ということか。

すでに、「仲間、努力、勝利」 という言葉自体に、子どもたちの心がフィットしていない。



わたしたちは、つくるしかない。

競争、努力、根性とはべつの、変化した(進化した)、あたらしい価値観の言葉を。


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保育園で、講演会

保育園で、講演会をしてきました。

0,1,2歳児が対象の保育園です。

来て下さった保護者の方、職員の方、みなさん若い方ばかり。

木をふんだんに使った建物で、とてもやわらかい、すてきな空間でした。



講演の後、質問がありました。

子どもが歯磨きをとてもいやがるが、どうしたらよいでしょうか

というようなことでした。

不安を取り除くことで・・・

と話をしました。

不安を取り除くと、元気になる。

これは大人も子どもも共通のようで・・・。

しかし、その「不安」も、

大人と子どもが、支配する、支配される、というような無理のある関係性でなかったら、

ほとんどなくなっていく。(最初から無い)



大人も子どもも同じで、

心の奥底の、『真意』を大事にしていく関係性があれば、

双方が無理なく元気になり、自然と活発になり、意欲がわき、

双方が困らず、最初から納得しあい、話し合える。



エピソードを交えて話をしました。

今回は70分ほど。

全力でお話させていただきました。

熱心に聞いていただいて、ありがたかったです。

その後その質疑応答で、さきほどの、「はみがきをいやがる・・・」の話題が出ました。



いっしょに笑顔になっていきたいんだ、ということ。

歯磨きの大切さを、きちんと伝えていく、ということ。

親も子も共通の、「一番星」をめざしていくんだ、ということ。

こころを満タンにして、共にすすもう、ということ。

質問をしてくださった方、とてもいい笑顔を見せてくださいました。



わたしにとっても、すごくたのしい1日になりました!

園長先生、お声をかけていただいて、ありがとうございました。

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主語が「わたし」であれば、平和な証拠

NHKスペシャルで、「731部隊」が取り上げられていた。

また、インパール作戦のことも先日、やっていた。

録画してあったその2つを続けてみて、考えたこと。




えらい人の主語が 「わたし」 でなくなってるときに、
人は、要らない事件を起こすみたいやなぁ〜。


「軍人たるものは・・・」
「部下であれば・・・」
「日本人なら・・・」
「日本男児のすることに・・・」
「男っていうのは・・・」

こういう言い方をするときの目は、宙をさまよう。
自信がなく、虚勢を張っているように見える。

怒った時の感情の処理の場面で、この言い方がよく出る。

本当の自分の意志、自分自身を大切にできなかったから、
そのことが心の裏で分かるから、自分の心に勢いを駆るしかなくなる。

それで、大声(おおごえ)になってしまうのかな。

冷静でいられなくなることの原因は、たぶん、それ。


「他の軍人もみな・・・」
「相手は匪賊で」
「陸軍としては」

この時、「個人」は、すっぽりと抜けている。




「軍人」・・・も、
「日本人」・・・も、
「日本男児」・・・も、
「男」・・・ってのも、

みんな、わたし自身の実際とは、つながっていない。
くっつけようとした、というだけの『言葉』。



「わたしは、いやだと思った」
「わたしは、とてもできないと思った」
「わたしは、泣いた」


こういうことは、戦争を終えて、
心に余裕ができてから、はじめて言えたこと。

「わたし」が主語になる間は、平和な時代だ、ということ。



自分を大事にしなかったときの、言葉の癖は、よく見える。
平和な時には、それが見える。

つまり、主語が「わたし」以外になってしまう、ということは、
「わたしは、自分を大切にしていません」ということを、
だれかに気付いてほしくて、言外ににおわせているのかも。

NHスペシャル

心の性別

小学校の先生をしていると、

幾人か、こういう子に会います。

身体の性とは別に、心の性をもつ子。

男子だけど、心は限りなく、女。

逆に、女子だけど、心の性という意味では、男。

どちらも、います。

社会からの圧力がまだ無いため、本人も楽に生きることができています。



話し方や興味、持ち物、なんとなく全部女子、という男子がいました。

集会などで、男女別で並ぶのですが、なぜか女子の方にならんじゃう。

並ぶ直前まで仲の良い女子との会話がはずんでいて、そのままの勢いで、つい女子の列に並んでしまう。

男子が女子を好きになる、という意味の、「愛の対象としての性」ではなく、

女子との会話が妙に弾み、持ち物を見せ合うのも、ノート交換をするのも、女子と一緒の方が楽しい、いっしょに遊ぶ対象が女子なのだ、という男子です。

声も、まだ高い声だし。

「でもさー、Mちゃんの持ってるピンク色のリボンの方がかわいいじゃん~」

そう言う彼を、ほとんど、女子の仲間として受け入れるメンバーもたくさんいて、

彼は彼なりに、女子の身内としての居場所を確立しているわけ。




音楽室に移動するときも、休み時間に図書室へ行くときも、

女子たちが、きちんと、彼のことを、待っている。

「ごめん~、まった?」
「行こーっ」


女子の3,4人といっしょに、図書室へ行く、彼。

いつも、メンバーの話の中心になっているから、話術も巧みなんだね、たぶん。



驚くのは、彼は、プールで着替える時は、男子の更衣室で着替えます。

べつに、驚くことじゃないのか・・・。



水泳パンツに着替える時は、男の子と、楽しそうにしゃべりながら、着替えている。

また、サッカーをやる時は、

「キャー、ボールきた!」

と恥ずかしそうにするんだけど、

けっこう、いいシュートを決めたりするわけ。



つまり、彼は、男子としての自分も受け入れつつ、

心理的に女子を十分に理解できる能力も兼ね備えている。



すごいですよ。

なぜかって、たぶん、この子は、平和の使者になれるですよ。

男子の世界も知っている、女子の世界も、知っているのです。



ニューハーフではなく、

ニューダブルです。

ダブルの、能力の持ち主です。

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