叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

「知識」と「意見」を分ける その2

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人生をうまく生きるため、知識を得ようと本を読むのは、ムダなこと、なのかもしれない。

そこに潜んでいるのは、すばらしい知識、ではなく、ただの「意見」にすぎない。

半世紀ほど前、母乳かミルクか、どちらが正しいか、という議論があったそうな。

また、3歳児までは母親が育てるべきだ、という意見と、こだわらなくてもいい、という論争があったそうだ。

現在では、どちらが正しい、ということもない、という結論に落ち着いている。


考えてみれば当たり前のはなしで、人生の何が正しいのか、賢いのかなど、いったい誰が決めるのだ。

パン食が正しい、とか、米を食うと馬鹿になる、という意見もあったそうだ。

スポック博士の育児書、という本がベストセラーになり、抱っこはやめるべきだ、と書かれた。

赤子をうつぶせで寝させると、頭の形がよくなる、という言説も登場した。

現在では、どちらが正しい、ということもない、という結論に落ち着いている。


考えてみれば当たり前の話しである。

本人がやりたいようにやればよい。

どちらが賢いかなど、判断基準が異なればまったく逆の答えになる。

そもそも、賢く生きようとすること自体が間違っている(不幸を招く)可能性だってあるんだし・・・。


賢く生きようと意識するか意識しないか、ということ自体も含め、人生の岐路に立つ人も、生涯の伴侶を選ぶ人も、目前の就職先を選ぶ人も、ほとんどの人が、耳に入った情報の偏り加減や、量の多さで、なんとなく右か左かを選んでいるだけ、なんじゃないかという気がするネ。

そんなものに振り回されず、本人のカンで生きた方が、よほどスッキリしている。

本人が第六感で選ぶのであれば、間違っても、他人のせいにすることもないだろうし・・・。

しかし、現状では、テレビでどこかの教授や人気タレント、その道の専門家が言った意見だから、ということで、〇〇した方がいい、と判断することは多いだろう、と思われる。

「〇〇すると、いいんだって」
「へーーー!!」

このような歴史が繰り返されている現状を知ると、これはおそらく、人間の思考の癖なのだろう、と思うネ。

人間は、不安なのだろう。

だれかが強い調子で、断定的、確信的に何か言っているのを聞くと、あたかも、

「そうしないやつは、アホ!」

と言われている気がするのだろう。

その不安から逃れるためには、だまされているかもしれないが、ともかくやってみる、食べてみる、ということになるのではないか?

そして、やればやるほど、「いい」ことをしよう、「かしこく」やろう、という気持ちが、これでもか、というくらいに肥大化する。

ハカセの

「知識」と「意見」を分ける

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「知識」という言葉に、絶対的な肯定感をもつのが、多くの日本人だろうと思う。

知識が武器であり、知識が生活を便利にし、知識が人間としての深みを増してくれる。

人生は、知識で豊かになるもの。

これは、そうである、と私も思う。

「知ること」が、人生の最大の楽しみである、とさえ、思う。

ところが、「知識」というものは、カチンコチンに凍っている。
その、凍ったものである、というところが、「知識の」唯一の欠点である。

とくに、

「こうするとうまくいく」

と書かれた、ノウハウを紹介したもの。

これは、わたしから見れば、完全に凍ってしまっているイメージがある。

「うまく」 の中身が、その著者にとっては「うまく」かもしれないが、果たしてその良さが、自分に通用するかというと、案外と通用しない場合もあるからだ。

「あの店のラーメンは、めっちゃうまい!」

と聞いて、その店のラーメンを食べてみると、果たしてあまり、うまくない。

そんなことは、みなさん、星の数ほど経験しているでしょう?


ネットショッピングのクチコミがにぎわっていて、

「めっちゃいい!!買って良かった!」

と、仮に千人の人が書いていても、やはりその中の数十人ほどは、「私には合わなかった」と書くのが常である。

これから買おうとしている「買い手」にとっては、自分自身が、「いいね!」とつぶやく千人のうちの一人になるのか、もしかするとそこから漏れた、数十人のタイプであるのか、さっぱり判断がつかないのである。

だとすると、口コミ、というものは、読んで参考になるかもしれないが、読む前につかなかった決心は、やはり読んだ後も「つかないもの」なのだろう。

つまり、「決定打にはならない」というのが、クチコミの本来性というか、もって生まれた宿命なのでありましょう。


だとすると、買い物をする前には、やはり、10回の買い物のうち10回とも、

「買って自分自身に聞いてみるまで、良かったかどうか、分からない」

というのが、最後の最後、本当のところなのであります。

どれだけクチコミを見ても・・・。

たとえ1万人のクチコミを見ても、星の数を星の数ほど参考にしても、やはり最後は、賭け、なのであります。


・・・と、ここまで考えてみると、自分の人生をいちばん、後悔せずに送るのは、自分の第六感を信じて生きる方法、それ以外にない、のではないだろうか、と思うようになった。


同様に、結婚は早婚がトク、晩婚がトク、子育てのコツ、彼氏にするならこんな彼、とか・・・

人生の多くの事象について語るものが氾濫していて、

「これがトク!」とか、「このスタイルがかしこい!」とか「この生き方がステキ!」だの、

ありとあらゆる情報が錯そうしている。

こんなに情報がたくさんあるんだもの。

ノイローゼになるのも、分かるね。

コメント・ノイローゼ。

かつて、洗剤を買うのに、1日かかった、という職場の先輩がいた。

あれこれとネットを調べていると、さまざまな商品があり、コメントやクチコミがあふれている。

「よし、一番よいのを選んでやろう」

と意気込んで、パソコンの前でビスケットを食いながら画面をにらんでいたら、

あれもいい、これもいい、いや、あれはダメ、これもダメ、いや、やっぱりよい、いいや、よくない、いやいや・・・

結局、コメントを信じて読むだけで、アタマがふらふらになり、いいのか悪いのか、ちっとも分からず、片頭痛がおきて、倒れるようにベッドに横になった、という。





・・・・・・

ああ、そうかも・・・。

〇〇がいい!

というの、これは「知識」じゃあ、なかったんだな。

今、気が付いた。

〇〇がいい!というの、これは「知識」じゃあなく、ただの、「意見」だったんだ。

トホホ。

のけぞる

閻魔さま!おねがい!

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おそらく、2017年は、『閻魔さま』が、流行すると思う!

小生は、ずいぶん以前から、

「閻魔さま」 について分析しつづけているのですが、

「閻魔さま」 は、受ける要素がたっぷり、詰まっている。

2017年は、ぜったいに、閻魔ブームがくる、と思う。

いや、実はもう、すでに来ているのかも・・・。



だいたい、閻魔様は、全国津々浦々にある、閻魔堂にふつうにいらっしゃるので、とても身近な存在。ふだんから、人々に、親しまれる存在であります。

しかしまた、あの世の入り口におわしますところから、なにやら不可思議な感じがある。

さらに、閻魔様は、人に問う存在、でもあります。

「おまえ、一生の間に、なにをした?」

と聞くのですから、たまったものではありません。

そんなこと、死んでからすぐに答えられる人、いるのでしょうか。




絵本に閻魔様の出てくる物語があり、わたしが読んだとき、教室の子どもたちが

「閻魔さんがなにをきくの?」

「よいことをしたか、わるいことをしたか、きくんだよ」

となり、

「よいことをすれば、極楽へ。わるいことをすれば地獄へ落ちるんだよ」

ということをいう子がいた。

ところが、大問題が発生しました。

「え、じゃ、どちらもしなかった人はどうなるの」




たしかに・・・、

ごくふつうに人生をおくっていたら、

そんなにいいこともしないし、わるいこともしない

という状態であるのが、ほとんどではないでしょうか。


ひとりの子は、なにかで話をきいたようで、

「ありを踏んづけたら、はい、もうそれで地獄」

と言った。

教室中から、そんなわけはない、と一蹴されていました。

「その規定でいけば、極楽は存在しない」

つまり、ありを踏んづけないような人間は、おそらく生まれたての赤ちゃんしかない。
とくに腸内細菌レベルで見れば、毎日何万もの生物を殺し続けているのが人間だ。
極楽は、赤ちゃんでさえ行けないところ、ということになる。

「極楽は、そんなふうに、人を最初から選別しないだろう」

という感じなのです。

そこで、もう少し「しきい値」を操作する必要が出てきた。

大問題になったのは、


「よいことをすれば極楽」

ということなのか

「悪いことをしなかったから極楽」

ということなのか、どうか。


ということ。

つまり、絶対的な基準となるものを一つ教えろ、ということです。

最初の質問の通り、

「とくに、良いことも悪いこともしてこなかった人生」

は、どちらになるのでしょう。


これは、もう分からないので、フィーリングで、多数決でクラスで決めておこう、ということになった。

「では、これから2年1組ではこうだ、というふうにどちらかに決めます。手をあげてください」


この結果、どちらが勝ったでしょうか。


これは、ネ、個人ごとに、どちらに重きをおいているか、ということだ、ね。

良いことをする

ということに価値をおくか

悪いことをしない

ということに価値をおくか


ですな。

もう何年も前のことですが、覚えているのは、当時の2年生の子たちにとっては、

「悪いことをしない」という方が、価値が高く感じられた。

だから、良いことをしている人でも、他の人の邪魔をしたり、脅したり、暴力を振るったり、ハラスメントするなど、悪いことをするのはいけない。いくら他で良いと評価されるようなことをたくさんしていたとしても、地獄行きである。

しかし、悪いことをしない、ということはとても価値の高いことだから、それでよい。

べつに特段、よいことをしていない、という人であっても、悪いことさえしなければ、ふつうに極楽へGOできる、ということになった。

どうです?

こういうことを考えるだけでも、閻魔さまって、面白い要素がたっぷり詰まっているでしょう。

2017年、閻魔ブームがくるよ!!


わたしの予想

今年の漢字は、王
流行語は、「それ、閻魔(えんま)ってるよね?」(=他の人の邪魔はしていないよね?)
CMには、閻魔がどんどん流れる。
ゆるキャラに、閻魔が採用される。
「藁(わら)って!閻魔さん!」という番組が始まる。

1年後、こうなってなかったとしたら・・・

そんときは、
そんときは・・・

ごめんなさい!

わらいえんま



レッドの懸垂

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夕方。
まだそれほど暗くない夕暮れの入り口という時間帯だった。
高速道路のサービスエリアで停車し、トイレから帰る途中、ふと、ある人間の姿が目に留まった。

その人は、うす暗くなったためか、トイレの前の照明をたよりに、そこにいたようだった。

わたしは思わずたちどまって、その姿に見入ってしまった。その方は、なにしろ一生懸命に、アキレス腱をのばしていらっしゃった。すぐそばの、コカ・コーラ自動販売機の灯りが点滅するのに合わせたように、その方はかなりの勢いで、懸命に体操をつづけた。

私よりも少し年配かと思う。学校の役職でいえば、教頭か校長、という感じ。

夕闇せまるサービスエリアで、黒い影が寸暇を惜しむようにして、足腰をまわしたり、うでを回旋させたり、前後にはげしく長い身体を折り曲げたりしている。一瞬わたしは、恥ずかしいところをみちゃったな、と思った。

影は、リズミカルに動きつづける。
人間と言うのは、こんなにも動くものだったのだ。
高速道路を運転する間じゅう、ずっと同じ姿勢を続けてきていたせいか、わたしは人間というのがこんなにもやわらかく体を動かすことなど、すっかり忘れたような気分でいた。


寸暇を惜しんで、という言葉が、アタマに浮かんだ。
わたしにはこれまで、「寸暇を惜しんで」体を動かす、という体験があったろうか?

黒い影は休みなく、ストレッチを続けていた。
先に感じた、気恥ずかしさのようなものは消えていた。
そのかわり、おそらくこの方の帰りを待つ人や同乗者の方のことを思うと、素直な気持ちで、
「ちゃんと目を覚まそうとしてるんだなー、えらい人だなー」
と思い始めていた。


映画の仕事をしている義弟から、こんな話を聞いた。
あるとき撮影所から出てみると、隣の建屋で撮影をしていた戦隊物のヒーローたちが、マスクを取って休憩をしていたそうだ。

科学戦隊2
もちろん、クビから下は、ヒーローのスーツ。
おなじみのレッド、ブルー、イエロー、ピンク・・・。
みなさんかぶっていたマスクを脱いで、休憩しつつ、ペットボトルのお茶を飲んでいらした。

科学戦隊
すると、驚くべし、そのうちの一人が、ヤッとばかりに建屋の骨組みにとびつき、たちまち懸垂をはじめたそうな。
その懸垂のスピードがいかにもはやくて、さすがにアクション俳優だけはある、と感心しながら、あることに気がつき、驚いた。なんと彼は、おそらく50代であろう白髪交じりの年配者だったそうだ。

「筋力がおちないよう、束の間の休み時間にも、体を鍛えてたんじゃないでしょうか」
と、義弟。

ヒーローは、悪者と戦うことだけが仕事なのではない。
ふだんから、戦う準備をしていたのだ。
白髪の頭部、額にあせをにじませ、ものすごい勢いの自主トレをやり終えた後、ようやくレッドはぶらさがった鉄棒から飛び降り、ペットボトルに口を当てた、という。

中年ともなれば腹も出てこよう、たるみも出てこよう。しかし、アクションで食べていくには、ふだんからの節制と努力が肝心なのだ。このくらいの自己管理ができなくては、戦隊のキャプテン、レッドとして活躍できるはずがない・・・。


高速道路の男性も、ちょっとした空き時間に、自分の体調、コンディションを整えようと思ったのだろう。おそらく、家族がトイレに行っているのか、買い物でもしているのか。男性は、十分念入りに身体をほぐしたあと、ゆっくりとパーキングの方へ歩いて行った。

寸暇を惜しめる人は、惜しむのが良い。
その間は、きっと充実してるはず。

わたしは誰に見られているわけでもないのに、自販機でものを買うようなそぶりをしながら、急いで足首を回した。駐車場へもどると、周りの車がライトを点灯させている。


たっぷりと、念入りに、「寸暇」を惜しむことができる人もいる。
「寸暇」のはずが、その人の手にかかると、あら不思議。あたかもはじめから予定してあったように、事柄がぐんぐん進む。時間の使い方が、なにしろうまい。なにごとによらず計画的で、これからの行動のすべてを予定表に、細かく列挙できるような人だ。

わたしは、とてもそうはいかない。
わたしの「寸暇」は、安っぽい。足首を数回まわしただけの「寸暇」である。

しかし、そのわずかな「寸暇」が、くすぐったいくらい気持ちがいい。
そもそも、人生は空白だらけ。
そこに、自分を大切にできるわずかな世界を見つけ出すのに、成功したのだ。

「寸暇」は、寸暇であるからこそ、価値がある。
そこに、あれもこれもと、自分の要求を詰め込もうとするのは間違いだ。
いつの間にか、本当にやれるはずのことが、犠牲になってることだってあるのだから。



かっこ良かっただろうな、レッド。
あれは、ふとした流れで、わずかにやってるから、いいのだな。
寸暇の懸垂だから、いいのだ。

「このままじゃ」

正月の最初に、わたしは今年初の独り言を言った。

「おれは、レッドにはなれんぞ。・・・せいぜい科学研究所のロボット犬くらいだな」

高速道路を照らすまぶしいハイウェイのライト群が、つぎつぎと現れては、背後に消えていく。
家族はうしろの席でとうに寝入ってしまって、わたしの独り言も、だれも聞いてはいないようだった。

犬

と・き・の・な・が・れ

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年末の大掃除。

荷物をひっくり返していると、段ボールの中から、思いもよらぬモノが出てくる。

古い写真やアルバム、手紙、何か記念のつもりだったのだろう、切符や美術館の入場券まで出てきた。


小さな文庫本が、いくつか出てきた。
20歳で大学を辞め、牛を飼っていたころ。
またその後、農業を生業として仕事を始めた時期からの持ち物だ。

それが、なんと、今とまったく変わらない趣味で、おどろいた。
オレは、30年近く、まったく趣味の変わらない人間であったのか、という思いだ。

水木しげるの、作品集。
そして、落語の本。

「なんだ、今と変わらないな」

それを見ていた嫁まで、声をあげて笑って、

「進化してないなあ~」

と言う。


そういえば、30年前から、おなじことを思い続けている。

5時間くらい、たっぷりと、テレビの前で、桂小三治のビデオを見たい。

ずっと、そう思い続けてきた。
でも、ずっと、それがかなわない人生だったらしい。

毎日、毎日、やることのある毎日。
ヒマのない、毎日。
それが幸せでもあったのだろうが、同じことを30年近く、思い続けて、まだ今だに、それを「確固たる欲望」として、抱き続けている自分自身が、なんだかふびんに思えてくる。

サザエさんを一日読んでいたいだとか、河童の三平をトレースして、描けるようになりたいだとか、枝雀さんの「貧乏神」を演れるようになりたいだとか、

同じことを、本当に、30年以上、思い続けている。しかし、それをちっともやっていない。
今度暇になったら、と、ずっと思い続けている。30年以上も!!!

kappano


さかのぼると30年ほど前、中学か高校生の頃の趣味が、そのまま持続する、というのが、あらためて衝撃だ。

高校の頃は、当時思っていた落語への情熱が、そのまま自分の人生にずっとずっとつきそってくるとは思いもしていなかった。
将来は、もっともっと、自分も、自分を取り巻く世の中も、劇的に変化し、変わるのだ、と思い込んでいた。
(ところが、当時も今も、自分の中身はそれほど変わらない!!!)

志ん生のテープを聞いて思うことも、30年前と同じだ。
同じところで、同じように、笑っている。
40代半ばの自分と、高校生の頃の自分と、同じ感情を抱いて、生きている。


それが自分で分かって、なんだかすごく衝撃を受けている。
自分自身に。
そして、ときのながれ、というものに。

運が良すぎる件

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病気らしい病気をせず、元気に毎日働けてあることに感謝をしている日々である。

このように元気になれたのは、玄関に飾ってある蛙の置物のおかげである。

蛙の置物がテレビの前に置いてあるときは、なんだか調子が悪かった。

しかし、その蛙を偶然にも玄関に置いたところ、怪我も無く、病気もしない。

事故に遭うことも、蜂に刺されることもなく、元気に働けている。

おまけに先日、近くのショッピングセンターの前で配っていた福引抽選券をよく見てみたら、10等のティッシュボックスをもらえることが分かった。

こんな幸運も、すべてこれはカエルの置物のおかげである。

ところが、嫁様はそれを信じない。

「そんな蛙の置物が、あなたの健康をどうこうと左右できるわけがないでしょう」

と言って、なんと3分もわたしを馬鹿にしたように笑い続けたのである。

わたしは憤怒の鬼と化し、その蛙の置物を前に、復讐を誓った。

蛙の置物は、わかったのかわからないのか、私の懇願にもまったく反応をしないが、なんだか目がぴかーと光った気がする。

そして次の日、嫁の口の中に、口内炎ができた。

これはすべて蛙様の仕組んだものである。

その証拠に、わたしが蛙様を見上げて、

「嫁の口内炎をもたらしたのは、カエル様ですか?」

と尋ねると、

なんとなく、雰囲気的に、わたしの感覚が伝えるところによれば、

目がまたふたたび、ぴかーと光ったような気がしたのである。







わたしは毎朝、蛙様を見るたびに、

「オンマカマカカエルサマ、オンゲコゲコカエルサマ、今日もまた良いことが起こりますように~」

と祈るようになった。

蛙



ところが忙しくてついうっかりと、蛙様を意識するのを忘れる。

ついには完全に蛙の存在を忘れて3か月ほど過ぎた。

先日、ようやく蛙様に気がつき、よく見たらまったく生気が感じられず、ほこりで灰色になっている。

ここまでほっとくなよ!

しかしわたしはそのほこりだらけの蛙様をみて、直感したのである。

「おれが病気もせず、怪我もしないのは、この蛙のせいじゃあないな」

たぶん、今年まだ一度も風邪をひかないのは、きちんと手を洗ってよく食べて寝ているせいだろう。

それとも、もしかすると、蛙の置物ではなく、クジラのぬいぐるみのせいだろうか。

夏休みにクジラのぬいぐるみを買ったから。

きっと、鯨のぬいぐるみを、大切に扱っているせいにちがいない。

なんせ、まだ箱から出してもいないから、くじらのぬいぐるみはまったく汚れていない。

そのせいかもしれない。

箱から出して遊びまくって手あかでまみれていたら、きっと幸運は訪れなかっただろう。

わたしが健康な理由はどれか。

1)蛙の置物を玄関に置いたこと
2)手を洗い、良く食べて寝ていること
3)くじらのぬいぐるみを箱から出していないこと


どれだと思いますか?

もしかしたら、どれでもないかもしれない。

たぶん、どれでもないな・・・。ハハン。


蛙の置物

戦争の映画を深夜に見るのはやめた方がいい

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8月15日。
終戦記念日
日本で暮らしていると、夏は戦争のことを考えることになる。

水木しげるの漫画で、いわゆる戦争を描いた作品群がある。
若い上官が「突撃!」と言いながら大勢の兵隊と共に死んでいくレイテ島の作品を見ると、こんな現実があったらすぐに卒倒して、戦う前に俺は死んでしまうな、と思う。
大体、銃を持たされたら、それだけですぐに卒倒してしまうだろう。

昨夜、なぜだか寝付けず、深夜になって、録画してあった、「日本で一番長い日」を見てしまった。
これは、昭和天皇や閣僚たちが降伏を決定した8月14日の正午からの宮城事件を描いた作品だ。
正確にはその後、国民に対してラジオの玉音放送を通じ、ポツダム宣言の受諾を知らせる8月15日正午までの24時間を描いている。

ここに、陸軍少佐の畑中健二、という人物が出てくる。
最後、ピストル自殺をしてしまう。

観終わったあと、畑中健二の不幸は何だったのだろうか、とあれこれと考えた。
あれこれを考えながら、つい書棚の「野火(大岡 昇平)」を見たり、水木しげるの「総員玉砕せよ!」とか「劇画ヒットラー」とかを手に取ったりした。

時計を見ると、もうすでに午前3時。見終わった興奮からか、まったく眠れない。

そして、この畑中さんの不幸とは、人を動かそうとしたことだろう、と考えた。
将校、という立場になり、人を動かそうとしてしまった。
人に指図したり、その場を仕切ったり、自分を通そうとしてしまった。
究極には、森 赳さんを殺してしまう。

なぜ、畑中さんは、人を動かそうとしたのだろうか。
それはたぶん、「将校」という気分がそうさせたのではないだろうか。
将校である自分が、人を動かすことができる、という幻想。

大岡昇平の「野火」には、結核にかかった田村一等兵が出てくる。
食料もほとんどなく、もうろうとしたままレイテ島をさまよう田村。
田村も戦争で苦しんだ一人だが、田村は権力によって人から指図された側であった。

指図したり、指図されたり。
命令したり、命令をされたり。
その場を仕切ったり、仕切られたり。
それが、『戦争』をめぐる、人間の行動のパターンである。


しかし、このパターンに当てはまらない人もいる。
水木しげるは、上等兵から、
「お前はいちばん言うことをきかんやつだ」
と言われていたらしいが、水木本人はちっともそう思っておらず、
ただ目に映るものが面白かったり、毎日の日々の暮らしに興味がありすぎたりして、上からの命令がよく把握できなかったのだろう、と自分で書いている。

人から指図される、という気分がないから、もちろん人に対して自分から指図する、という風にも思わないのだろう。
水木しげるとよく似た経験の持ち主に、フランスの作家、アルフォンス・アレー(Alphonse Allais)がいる。
アレーもまた、指図されることがなかった。
上官が号令を出しても、きょとんとした顔で上官を穴のあくほど見つめるだけで、どうしても軍靴をそろえるタイミングがずれる。ほとほと上官もあきらめて、アレーが軍靴をはかずに整列しても許したほか、最後には何をしていても、自由にさせたらしい。

水木しげるも、南方に着いたらさっそく絵を描いたそうだ。
上官から
「島に上陸してすぐに絵を描き始めたやつなど、見たことがない」
と言われたが、それが遠回しにヤメロと言われたとはまったく思わず、
「そうでありますか」
と言い、そのまま描きつづけたので、上官はもうあきらめた、という話もある。

わたしは「日本でいちばん長い日」の畑中少佐と、「野火」の田村一等兵を比較するつもりだった。
戦争遂行の作戦を練る側の畑中少佐と、その作戦を受けて、一兵隊として行動する田村。
しかし、実は、それらは同じ部類であった。

『戦争』を客観的にみられるのは、水木やアレの気分からだろうと思う。
水木やアレを、真に理解する文化が、本当の意味で「戦争の本質を把握する」ということになると思う。
いや、戦争の、ではなく、人間の、かも。

人は、人に命令をすることで生きるものなのか。
人は、人から命令を受けることで生きるものか。
というよりも、そもそも、人に対して命令なんてできるのか、命令を受けるなんてこと、できるのか。

1年生のTくんを思い出す。
「先生のイウコトを聞きましょう」
なんてこと、Tくんにはなにもなかった。

大声をからしてTくんに、
「席に着きなさい!」
と怒鳴っても、〇〇しないと、〇〇するよ!と脅しても、まるで効果なし。

ほら。
人に命令するなんてこと、あるいは命令されるなんてこと、本来はできないのですよネ。
あるドグマで人を支配しようと、人権無視の暴力に訴えるような脅迫的な教育を施すからこそ、その結果として、「命令をきくのが良い」と思う人が育つわけで。

シン・ゴジラも、水木しげるのような人が描写されてほしかった。
畑中タイプと田村タイプばかりで、それ以外の人が出てこない。
人間ってもっとやわらかいものだと思うネ。
もし本当にゴジラが来たとしたら、官僚の対処、民間人の右往左往、というだけでない人間のあり様が出てくるでしょうね。たとえば、ゴジラを祀る人とか、出てきそうだ。
大和民族は、ヤマタノオロチさえ祀っているからネ。
そういう描写があれば、リアリティがさらにぐっと増したでしょうナ。


しげる