学級崩壊は、進化の過程
学級で、苦しんでいる子がいる。
必ず、そこには「学級らしくあらん」として、奮闘しておられる先生や、
そうなるように願っている保護者が、いるであろう。
皮肉なことに、担任が
「学級らしさ」を追及するために、まさにそのために、
苦しむ子どもも、存在する。
「学級らしさ」を追い求めるとき、ほとんどは、担任が児童に、
正しい子どもであれ
と要求するようになる。
もとから、正しく、子どもである、にも関わらず。
すでに正しく子どもである子どもに、
「お前は正しい子どもではない」というまなざしを向けて、
「変われ」
というメッセージをおくるようになる。
「お前は正しくない。おまえを認めない」
という宣告なのです。
そこから逃げ出したくなる、という子がいる以上、それを無視して、
担任が、担任の思う「学級らしさ」の階段をのぼりつづけるわけにはいかない。
となると、実は、いわゆる学級から一歩抜け出そうとする過程の中に、
一見してみると、「学級崩壊」のように見える状態が、出てくる可能性がある。
それを見咎めて、校長や保護者が、
「学級崩壊だから、良くない」
と断じてしまうのは、もったいない気がする。
そう考えると、学級崩壊は、進化の過程ともいえるかと思います。
対話の始まりであり、お互いをしっかりと見る、知る、ということの最初でしょうね。
両者がしっかりと向き合ったとき、学級崩壊は、
まぼろしのように、スーッと消え去るはず。
もともと、ただのイメージであったので、かんたん、です。