同時進行 生活科研究授業1
12月に研究授業で発表をする。
生活科である。
これからその記録を記していく。
まず、現状では、まったく生活科とは何か、分からない。
2年生は初任の時に担任したが、最初の一年はそれこそまったく右も左も分からず、とにかく主任先生がしろ、と言われたことをただひたすらに追いかけていっただけ。
ねらいも何も、わけが分からない。
視点もない、ねらいもない、やる内容も不明・・・
まあ、お話にならないレベルであった。
それから生活科とは無縁の月日が流れ、総合もよくわからないで中学年、高学年をやり・・・
言い訳はこのくらいにして、と。
学習指導要領や教育課程審議会の資料から、生活科をしらべはじめた。
同じ研究グループの先生にそのことを言うと、
「いいじゃない。そこからスタートすれば」
とのことであったので、恥も外聞もなく、頭を下げて、そこからスタート。
平成10年7月の資料で古いが、教育課程審議会の答申による文があり、
「活動や体験の中で生まれる知的な気付きを大切にした指導をする」
とある。
気付き、という言葉が本当に、不思議な言葉である。
気づく、という言葉は、わけがわからない。
正しさに気付く、というのであればまだ分かるが、その正しさとは、客観的な正しい事実でないこともある。ウソ、いつわり、ただの思いこみ、そうしたものすら、本人が
「気付いた」
といえば、気付きになってしまう。
そうしたことで、いいの?
そもそも、正しさ、ということが本当にキビシイ話で、えらい哲学に踏みこみそうになる。
まあ、そこまで言わずとも、気付く、というレベルがある。
思った、というレベルから、気付く、というレベルには、階段の差でいえば、何段もあるような気がする。
ともあれ、気付く、ということが、ただの感想とはちがうレベルに達するには、それに至るまでの段階がかならずある、ということ。
えっ、とか、おおーーっとか、うーむ、とか・・・ニュアンスでいくと・・・。
多くの、様々な感慨をもちつつ、ある感想の高みに至る、という感じがある。
そこに至るまでの、ドラマが必要で、そのドラマをドラマと感じるまでに、かならず「大変さ」と「困難さ」があるように思う。
うさぎを飼育することを通して、いったい何を獲得させたいと思うのか。