叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

あ、そう。ところで・・・2次障害対策


2次障害の子に対して、教師はどう対応すべきなのか。
これが本当に問題なのだ。
多くの教師が、今、このことに頭を悩ましている。

1)共感し、まずは受容する

ところが、これは案外とよくない方法だ。
なぜなら、共感したために、教師も同じように思っている、と誤解されるからだ。

終業式に出たくない、とがんばって、みんなの並んでいる体育館に行かずに校庭の花壇のところで勝手なことをしているAくん。
彼に、

教師「どうしたん?終業式始まってるよ。」

児童「行かんわ!あんなの!」

教師「行かんの」

児童「外におるんじゃ!」

教師「外におるん」

このやりとりに、すでに間違いがある。

お分かりだろうか。
外におる、ということを、最後に教師が同意したように、見えるのである。

そんなことない!
教師はそんなことに同意したわけでない。
ただ、児童の言葉を反芻した、あるいは繰り返しただけだ。
そう言いたい。

しかし、児童の方は、

「先生が、外におるんか、と認めた。外におっていい、と言った」

と思うのである。



オウムのように、言葉をくりかえすだけでも、この通りである。

ちなみに、これをどうしたらいいのか。

会話がほとんど、成り立たない。
2次障害、もしくは反抗挑戦性障害を抱えた児童にとって、教師との会話は、すべて自分の都合のよいように料理するものなのである。

教師は、オウム返しもできない。



わたしが考えたのは、

「あ、そう」

である。

これは、やってみると、オウム返しの時のように、

「先生がここにおってええ、と言った」

というふうには、ならなかった。


ただの、あいづち、だと思ってくれているのである。

「そうか」

は、怪しい。

「そうか」

は、同意、と近い。

微妙だけれども、同意、はしていないのだから、同意のニュアンスからは遠くなければならない。
しかし、あなたの話はしっかりと聞いたよ、ということは伝えなくてはならない。

そこで、

「あ、そう」

である。

「あ、」

もしくは、

「あー、」

という言葉が入るだけで、ちょっとニュアンスが変わり、同意とは異なって受け止められるようだ。


コツは、


「あ、そう」

と短く言った後、できるだけ早く、

「ところで、こんなところにおって、そのあとどうするん?」

と、本人のこれからの予定を聞くことである。

すると、これはなんだか、会話が続く、のである。

ほとんど、これ以外の会話は成立しないのであるから、(逆に、教師VS児童の構図で、いつの間にか、双方がエキサイトして、児童がキレる、ということになる)児童がキレないためにも、この会話しかない。

それにしても、どうして反抗挑戦性障害の子は、教師にくってかかるのだろう。
どんなことがあっても、なんとしても反抗して見せる、ということを固く心に決めているとしか思えないくらいだ。

でも、そんなナイフのような子どもにも、

「あ、そう。ところで、このあと、どうするん?」

は、会話を続かせる魔法の一言として、機能するのだ。

これはすごい。


子ども「ずっとここにおるなんて言っとらんわ。勝手に決めんな」

教師「お、えらい。ちゃんとそのあとも考えがあるんやなあ。」

これで、ともかくも、会話のボールは相手側に渡った。
やれやれ、である。



あるいは、

子ども「まだ、考えとらんわ」

教師「おお、じっくり考えようと言うことだね。そうやってしっかり考えるのって大事だもんね」

子ども「うっせえ。ほっとけ」

教師「いいよ。考えてごらんよ。まさかずっとこのままじゃあ、ないもんね」

子ども「うぜえ」

教師「わかった。体育館の外で待っているよ。自分で決めるのじゃなくて、学校で決めた時間割でやるのなら、体育館へおいで」

ここまで言うと、反抗挑戦性障害の子は、くたびれたような顔でゆるゆると立ち上がる。



彼らは、瀬戸際にいる。

1)自分で行動の予定を決めてうごく。
2)小学校で決めた行動予定にそってうごく。

この、1)と2)の境界をさまよっているのが、彼らだ。
1)でやる、というのなら、学校に来る根本がちがうのだから、親も交えて、

なぜ小学校に来るか

を話し合っていくしかない。

2)でやる、ということで、少しずつ、身体を慣らしていく過程にある。
まだ、1)から2)へ足を踏み入れ始めた、初期の段階なのだ。
過渡期であるから、先に述べたような、教師と児童の、会話にならないような会話をしていくしかない、のである。

その会話ができなければ、教師をなぐってしまうのだから、まずは会話ができるように、もっていくしかない。