叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

廊下を走ると先生に叱られますよ


廊下を走る子がいる。
注意はするが、それが当たり前になっている。


2学期が始まったので、職員会議で話題になった。
どうやって、指導していこうか。


廊下を走るのは、なぜか。

小学校1年生で入学する子たちは、ひろいところに出ると、走るのがたのしくてしょうがない。
廊下も、格好のフィールド。まるでかけっこの競技場のように感じている、ようだ。

ビューン!

と声を出しながら、笑いながら走っていく子。

そのまま見ていると、こちらも思わず笑ってしまうくらい、明るい。
なぜなら、彼らには、罪悪感も、悪いことをしている意識もまったくない。怪我をするかもしれない、という気持ちもない。
たのしくてしかたがない。


こういった1年生を指導し、学校のルールを教え込んでいくのが学校という装置である。
しかし、1年生によっては、そういったルールが意識に入っていかない、しみこんでいかないタイプの子もたくさんいる。
すると、やはり廊下は走る場所になってしまう。

これが2年、3年、と教師を悩ませながら進級し、上級生になっても全力で廊下を走る子になる。

怪我をしても、そういった子たちはわりと運が強いのか、1年に一度、大きなたんこぶをこしらえるくらいが関の山で、いっこうに懲りる気配はない。そのまま大人になっていくのだろう。

「怪我をするよ!」

ほとんどの先生が、これを言う。
実際に、なまなましい話をして、低学年の女の子なら気が遠くなってしまうような話をする先生もいる。(わたしもよくやる。)

廊下を走った挙句に頭から滑り転倒しガラスに身体ごと突進した話。
永久歯が欠ける、血がだらだら出る、たんこぶから血が噴き出し、そこを針で縫う・・・とびちったガラスの破片が目に突き刺さり、眼球がつぶされた、という話をしたときは、教室が完全にシーンとなったこともある。

でも、廊下を走るのが減らない。

これではならじ、とさらに教師も意を決して頭に鉢巻きを締め、さらに生々しい映像をまるで見てきたかのように、これでもかと語るが、効果がない。
スプラッタムービーもかくや、と思わんばかりの、活動写真時代の弁士も兜を脱ぐくらいの真に迫った怪我の話をしても、効果が無い。

・・・


ともあれ、ふりかえってみると、私自身も廊下を走った記憶ばかりだし、私が小学生のころの先生たちも、廊下を走るのは苦々しく思えども根絶させるのは無理だと感じていたように思う。
廊下で思い切り走って、鬼ごっこをしていた日を思い出す。

となれば、今の小学生にだって、廊下を走るな、というのはもとよりなにかこちらが子どもの本質をとりちがえているのだろうか、土台無理な話なのかもしれない。

しかし、そうはいっても、指導の方法を探り続けないと教師は生きていけない。
どうやって生徒指導していくのか。


学級で全員に、廊下歩行シートをくばり、毎日帰りにふりかえって◎○△でもつけてもらうか。

どうかねえ。
まったく自分ではたのしくない提案だし・・・


他の学校で、廊下歩行の指導法で、画期的なものはないのだろうか。

「廊下を走っていたら、おかわりなし」
「廊下を走ったことで他の先生に叱られたら、ゴミ拾い10こ」
「廊下を走ったのを見つけられたら、帰りに反省文」

なかには、こんなペナルティも。

「廊下を走ったら、元の位置にもどって、そこから歩く」



こんなことなら、山ほどやってきたのに、それでも廊下を走っている子が絶えないのだから、これはなにか、根本がちがっているのかなあ。