叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

発達障害の子に「音楽会の大音量」は酷だろうか


こたえは、YES。

と思う。

だが、実際には、音楽会に自閉傾向のある児童も参加する。

なぜか。

担任が、参加させる努力をするからだ。

その、「参加のさせ方」に、2通りある。

一つ目は、
きわめて受容的にはげましながら、それでいて、学校のスケジュール、という線があること、勝手に行動をきめてはいけない時間がある、ということを少しずつインプットしていく場合。

二つ目は、
「○○くん!今、この部屋にいないと、××しますよ!」
と脅しをかける場合。


この、二つ目の対応をしている先生を見ていると、おそらく、その先生の頭の中には、

「音楽会に参加させることがわたしの仕事であり、役目である」

という強い信念と使命感があるのだろうと推測する。

それは立派なことだ。
熱心な先生は、そうであることが多い。
こういうことを強く思っている先生でないと、たよりない、と思われてしまう。

もうひとつ、その先生の頭の中にあることがある、と思う。

「この子を参加させなければ、担任としての技量を疑われてしまうのではないか」

と思っている。
だから、脅しをかけてまでも、大きな音のきらいな彼を音楽室に拘束しようとする。

拘束?
そんなの当たり前のことでしょう。
音楽会に出るようにさせるのが、教師の一番の仕事でしょう。

そう思う人も多い。
でも、発達障害を抱えた彼には、もしかしたら、通常の人の何倍も苦痛が与えられているかもしれない。
それこそ、音楽室にいることが、体罰に匹敵するほどの苦痛を与えているかもしれない、と思うと・・・。


ある先生に、うっかりと、

「○○くんは、もう音楽会に出ないで、その日は教室で静かに別のことをしていたらどうでしょう」

と言ってしまった。


どうなったと思いますか。
そのベテランの先生に、叱られました。
とんでもない、と。
大きな音量が苦手なことくらい、知っている、と。
でも、彼がだんだんと慣れてくれなければ困るから、やっている。
このままでは、音楽会を体験しないまま中学生にもなってしまう。
それでは彼の人生にとって、あまりにもかわいそうではないか。
それに、彼には、はっきりと、強くやるべきことを指示していくことで、行動規定を示し、やることを強くイメージさせることが必要なのだ。やることをイメージさせられたら、彼だって、参加できるのだ。

ということでした。

そうか、なるほどなあ、という思いとともに・・・

彼が、自分で、

「ぼくはこのくらいの音量では、苦痛になるので、かんべんしてください」

ということが言えるのが一番いいなあ、と思いました。
でも、それをうまく説明できないから・・・・

「音量苦痛モノサシ」を活用して、

「先生、今、レベル2です。あと10分はがまんできますが、その後はレベル3になりそうです。とても疲れてしまいそうです。またレベル3になったらお知らせしますね」

な~んて、言えるように、用意してあげたらいいのかな、なんて一人で考えていました。


しかし、そのネーミングでまた叱られそうですが。
「音量、苦痛? モノサシ?」
なんですか、その苦痛ってのは!
ぼくは大きな音がきらいだ、というのを、より強く本人が認識してしまうじゃないですか!


その苦痛、というのが、こちらには分からない、というのが一つのポイント。
この子は、大きな音が苦手なんじゃないか、と思っているが、勝手に教師の方が思っているだけ。
(でも、大きな音がすると、耳を押さえているから、苦手なんじゃないかと思うのです)