叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

ままごと遊びでノッてくる子とそうでない子


教室の中に、リコがいる。

リコ、というのは、アニメの登場人物。
ペンギンだ。

NHK。朝のアニメ、「ペンギンズ」の、ちょっと毛色の変わったキャラクターが、『リコ』だ。
クールな隊長、作戦担当のコワルスキー、かわいい新人。
そして、何でもかんでも胃の中に入れている、リコ。
この4人が、ニューヨーク・マンハッタンの動物園で、悪?と闘うのがストーリー。
悪といっても、なにが悪なんだか分からないのだが、自分たちは正義の味方だと定義して、いろいろと活動中なのが、このペンギンズ、である。

うちのクラスのSくんが、ときおりとっぴょうしもなく面白いことを言ったりやったりする。
ある日Sくんが「ウェッ!」とリコが出すような声を出した時、すかさず Yくんが「今の、リコみたい!」と言った。

それでクラス中が笑ったのだが、それ以後、みんなでSくんを
「リコ」
と呼ぶようになった。
Sくんもうれしがっているので、アニメの『リコ』がすっかりSくんのキャラクターのようになり、それはそれでいいのだが・・・

これはまあ、ままごとのようなもので、リコになりきって、遊んでいるような感じ。
これに、ちょっと対応できていない子もいる。
なにがおもしろいのか、なにがみんなに受けているのか、分かっているようで、微妙に分からない。

Sくんを「リコ!」と呼べば、おもしろいか、というと、必ずしも、そういうわけでない。
Sくんがその気になり、リコを意識して、いわゆる<ボケ>をかましているときに、「リコみたい!」とつっこむのが、おもしろいのだ。それで、みんなが笑うのだ。

ところで、タイミングも何もなく、「リコ!○○して!」とSくんに言ったからとて、それが面白いわけでなく、周囲のみんなが笑うわけでもない。
ところが、そういう微妙なタイミングを、うまくとれない子がいる。
つまり、その子はイマジネーションをふくらませていく力が弱いのだ。
これは、ルールを理解する力と一緒だし、先生が怒ったりやさしくなったりするのを理解する力と一緒。

ままごとって、大事だなあ、と思う。
親として、教師として、子どもをみていくときに、ままごとの世界を堪能できている子か、ままごとの世界にのめりこんでいけるか、同時にのめりこみすぎないで、辞めよう、となったらきちんと正常の世界にもどれるか。知っておくべきだ。正しく虚構の世界に遊べる子は、健全だ。

さて、くだんのSくん、リコ、と呼ばれるのが相当うれしいらしい。
家でも、お母さんに、

「ぼくのこと、リコって呼んでいいよ」

とお願いしているそうだ。
これまでわりとまじめで、受け身だったSくんが、リコ!のあだ名をきっかけに、なにかちょっと変わっていきそう。
他の子も、キャラ付けされると、とたんに生き生きしだすのはよくあることだが、彼の場合は、リコだったんだな。

リコみたいに面白いSくん。
きれい好きなAさん。
画鋲ハンターRくん。

こんなふうに、たまに、○○くん、と呼びかける前に、形容詞をつけて、呼ぶようにしている。
子どもがすごく、うれしがるのが、顔を見ると分かる。

画鋲ハンターというのは、よく廊下等に落ちている画鋲を、
「先生、画鋲が落ちていました」
とひろってとどけてくれるから。

「おお、またか!うれしいなあ。やさしいなあ。だれかが踏んじゃう前に、Rくんが届けてきてくれたね。おかげでだれかが助かったよ」
と言っていたが、それがうれしかったのか、何度も届けてくれる。
だから、
「おお、どんな画鋲も、Rくんの目はごまかせないな。まるで獲物をねらうハンターのようだ。Rくんは、画鋲ハンターだね」
と言った時から、私とRくんだけで、<画鋲ハンターごっこ>のようなことがひそかに続いている。

考えてみれば、大人だって、
用心深い○○先生、
机の上がきれいな○○先生、
算数だったら○○先生、
というふうに、形容詞付きで呼ばれると、なんだか楽しくなってくる。