叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

春風亭一之輔のまなざし


春風亭一之輔に、熱い視線が集まっている。
なにしろ、あの眼光鋭い、小三冶さんが

「あの人はなかなか」

とおっしゃったそうですよ。
こりゃー、なかなかの逸材と見ました。

なによりも、客をのんでかかっているのがイイって。

客をのんでかかる、というのがどういうことなのか、まだ分かりませんが、ひたすら

「どうなってもいい」

という感じの雰囲気がするんだとしたら、・・・たいへん、いいですねえ。

受けるかどうか、ということについて、冷静な人ほど、「どうなってもいい」という雰囲気がするのです。小三冶師匠もそうですね。枕から笑えるのは、この人、今日の噺なんざ、どうでもいい!と思っているんじゃないか、という、軽味(かろみ)が、おかしみに通じるからだろうと思います。
受けるかどうか、びくびくしているような弱気が見えると、なんだか気の毒になって、笑えませんからね。
一度、人生、「どうなってもいい!」という境地を知ることが大きいですな。

さて、一之輔さん。
びくびくしていません。
弱気が見えないのです。
この強気は、どこからくるんだ、と。
明日から落語家辞めてもいい、というくらいに思っているんじゃないか、と。
(それは立川談志師か)

受けるかどうか、客を試しているようなところがあり、

「ふふん、この程度で、これだけ笑うのか、ほお」

というような計算をしている風がある。(ここらは春風亭小朝師に似る)

また、受けないで当然、というような風がある。
「こちとら、笑ってもらおうなんて、思ってませんから」という感じ。
笑わせる、という風でなく、演じる、という具合。
演じて、演じて、演じて、笑わせる、という具合。

「受けないのは、演じていないから。」

これは、だれの言葉だったか・・・。
いつも思い出すのですが、キラ星のごとく光り居並んだ、あの昭和の名人たちのうちの、誰だったかのセリフでございます。興津要氏だったか、安藤鶴夫(アンツル)氏だったか、どなたかの本で読んだのだったかなあ・・・。

教員も、演じてナンボ、でしょうかねえ。

寺尾 聰さんの父親、俳優・宇野重吉さんの言葉に、

「思えば出る」

というのがある。
つまり、思いと芸(行い)が一致している状態、それが実ということ・・・だと。


言いたいことがあれば。
他の人より何倍も何十倍も思わなくては駄目。
人が10思うとしたら、100思えばいい。
そうして思いを深くしていけば、自然と伝わるものなのだ、と。
ああしよう、こうしようと小手先のことなどに執らわれるな。形にとらわれると、伝わらない。

・・・ということらしい。

その、「思い」とは何か。

以前は、「思いを放す」みたいなことばかり考えていて、
ともすれば「思っちゃダメ」のようにもなりかけて、我執を放すというのは難しいなあ、などと嘆息していたものだが、徒労であった。

思うのは自由。
もともと、自由なもの。
なんと、開放された気分だったろう。

相手が何を思うのも、自由。
わたしも、自由。

で、いったい、「何を思うのか」が・・・。
やはり教員、演じてなんぼ、ですかねぇ。
あれだけ純粋な眼で、見つめる目のある空間(教室)で、「なにか」を伝えなくてはいけないのですからナ。

「俳優とは本質を行動であらわす芸術である」(ステラ・アドラー