叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

いじめ根絶の切り札は



先日の「いじめ」レポート(上記)の反響があり、メールをいくつかいただきました。

いちばん多かったのは、

「あなたの考える、いじめ根絶のポイントは何か」

でありましたので、ほとんど当たり前の、みなさんご存知、という意見になりますが、一応記しておきます。


○すべて公(おおやけ)にすること

学校全体の保護者が、「ああ、○年○組でいじめがあったんだ。首謀者は○○くんで、いじめられたのは○○くんだ」とわかることが必要と思います。

情報は、公開した方がいいと思います。
公開すべき時期はありますし、被害を受けた子どもがそのことに対して、いい、と言わないとダメです。そういう、子ども自身が下す許可が要る、という条件はありますが、基本線として、いじめに関する情報をできるだけ公開していくことはよいことだと思います。

なぜかというと、いじめというのは、社会全体の問題であり、隠されるべきものではない、ということを、天下に示すことになるからです。とくに子どもたちにとって、いじめを隠し通すことは不可能であり、公開されるもの、というように大人が示してやる必要があります。

また、公開されると、いじめをした加害者側の子の心理はどうか、という意見をいう方もいますが、そのペナルティは受けなくてはいけない、ということを教える最大のチャンスであり、そこを逃すと、実は一番損をするのは、加害者となった子です。(ペナルティを受けない、ということが、逆に加害者を長期にわたって苦しめることになる)

加害者であった子が、みそぎをするチャンスを奪ったことになり、将来にわたって、世間に対して暗い影をしょっていかなくてはならなくなります。加害者の子も、救ってあげなくてはいけない、という視点を忘れてはならないと思います。
さらに言えば、被害者以外の全員が加害者です。見ていただけ、も加害者です。その場にいて、解決できなかった全員が。

また、とんちんかんにも、「被害者の子の心理をおもんばかって、公開しない」と言った校長がいましたが、あきれるにもほどがあ・・・。

いじめは、被害を受けた子にはなんの理由もありません。たまたま、ターゲットに選ばれただけ、です。その「いじめの構造」を説明して、周知しておくのは当然で、さらに、被害を受けた子のことも周知しなければ、いじめがあったこと自体が、あやふやなものになります。

だれがいじめを受けたのかは伏せますが、と言ったのでは、まったく被害者が浮かばれない。被害を受けた子以外の全員が、狂っていたのであり、おかしかったのです。被害を受けた子だけが、狂っていなかったのです。そのことを明らかにし、みんなが狂っていた、ということを天下に示し、被害者以外の全員が恥をかく、ということをしないとダメだと思います。きちっと恥をかかなくては・・・。

いじめを見過ごした、あるいは助長した、あるいは主犯となって加害した人間は、声なき良心の痛み、良心の呵責、ずっと存在し続けるストレスを隠しながら生きて行かないといけない。かわいそうです。
世間体なんて、実はそんなに関係ないのです。
いちばんおそろしいのは、「自分はひどいことをした」という、無意識に隠そうとした心です。
そんな魔物と、ずっとずっと、人生をいっしょにすごして行かないといけないのですからね。寿命が縮まります。

しっかり、世間に公開して、きっちり恥をかいて、自分の態度を責めて、生まれ変わる努力をする。

そのチャンスを、「まあまあ・・・」なんて、「なし」にしよう、と言う人がいたら、それが本当の悪人ですな。

すべて、公開すべきです。(なかなかすべて、ということができない。それがまたむずかしいところですが)