叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

クラス会議の持ち方の変化。




昨年度は、まるく円になり、順番に

「気になること」

を出させていた。
最初のころは、それなりの件数で順調に会議にかけられていたのだが、ともかくも僕の話を聞いてほしい、私の話を聞いてほしい、ということで、出されてくる件数が飛躍的に増えてしまった時期があった。

それでも、みんなの前で、
「気になること」
を言えた、というだけでスッキリするケースも多く、それはそれでやってよかった、と思えた。
それに、思わぬ効果もあった。
会議の中で、たとえ「気になること」の解決法を話し合わなくても、出し合うだけで、自然と解決していることも多かったからだ。

この方法のよさはある、と言える。
低学年のうちなら、だいじょうぶだろう。

しかし、中学年になって、少しずつ「友達の前で直接、クラスの課題をぶちまけること」のダイレクトすぎるやり方が気になる子も出てくる。
また、微妙な人間関係に起因する問題の場合、なんとしゃべったらいいのか、よく分からなくなってしまって、勇気を出して言いかけたものの、ただただ立ちすくむ、という子もいた。あるいは、説明したものの、なにかうまく言えず、まとまらないまま、という子もいる。

そこで、紙に書いて、ポストに入れる形式に変えた。
また、いつでも入れてよい、ということでなく、クラスの時間を使って、一人一枚かならず何かを書く、ということを不定的に行った。

そして、毎朝、かならず1件、課題をみんなで解決するのだ。
ちょっと難しそうで、アイデアを出さないと無理だ、ということであれば、すばやくグループ討議をする。
時間を朝の時間・5分以内でしたいのだ、と趣旨説明を早期にしておけば、子どもたちの中で、「先生、時間だよ」と教えてくれる子も出てくる。
うまく課題解決できなさそうであれば、次まで延期する。
こうして授業時間に食い込むことを防ぐ。

「ちょっと今日は時間なかったけど、明日までにちょっとみんなで考えておこう」

ということで済む場合も結構ある。
それで、明日になると、解決していることも。
(もちろん、いじめなどの緊急課題であれば、それはすべてを投げうっても対応する)

クラス会議のいいところはいろいろあるが、クラスお互いの顔や気分、考えていることが、すこしだけクリアに見えてくる、というところか。
それだけで、ずいぶん、人間関係がスムーズになる。
お互いの気持ちや考えていることの温度?のようなものが、つたわってくる。

そして、肝心なことは、

「みんな、幸せになりたがっている」

というような、本当にシンプルな基本事項が、暗黙のうちに共通理解できていくことだ。これは、やってみなければ感じられなかった。クラス全員がお互いに、運命共同体なのだ、ということの実感だった。


さて、実はクラス会議については、一昨年に取り組んだものの、自然消滅させてしまったことが忘れられない。
実質、私がクラス経営に会議をうまく位置づけられたのは昨年からだ。
昨年は、「お互いの心の内をたまには話し合って、課題があればそれを認識し合うだけでもいいから」と思ってやっていた。結果的には、そのくらいの軽いスタンスが継続のコツだったようにも思う。

一昨年は、なにしろ課題を抱えた子が多すぎて、クラスが冷え、疲弊しきっていたところからスタートしたものだから、ふつうにクラス会議をはじめても、まったく子どもたちの心に響いていかなかった。

「こんなことやったって、無駄だよ」

というような、子どもたちの冷めた視線を今でも思い出す。
ほめてもほめても、暖まらない、ぬくもらない・・・。


一昨年の方法には、ひとつ失敗があった。
それは、いつでもポストに手紙を入れられるように、常時受付を許してしまったことだ。
さらに、その方法を変えることを提案しても、すでにクラス会議に辟易してしまった多くの子どもたちの気持ちを変えることができなかった。

ポストに手紙を入れるパターンは、すぐに解決したい問題があっても、それが把握しにくい、というむずかしさがある。
また、すぐにポストが満杯になってしまう。

一昨年度やったときは、発達障害を抱えるこだわり傾向の強い女子が、特定の男子を個人的に集中して非難する内容の紙ばかりで満杯になり、

「○○くんがわたしに死ね!とか言ってきたので、なんとかしてほしいです」

というレベルが何十枚も。
同じ子が書いている紙もたくさん出てきて大変であった。

たとえばそれをクラス会議で、
「どう?」
と出しても、白けているだけであった。

「死ね、という暴言はクラスで許さない、というルールをつくるのはどうか」
と話が出ても、
「そんな、ルールなんてつくったって無理」
というあり様で、低温のクラスの空気を暖めるのに、えらいエネルギーを使わなければならない。

一か月ほどやってみてそんな調子であったため、私は

「うーん、こういう問題に関する、クラスの話し合いなどはこれまで一切もたれていなかったのかなあ」

という脱力感でちょっと挫折しそうになった。
ポストがあたかも戦争の象徴のようになり、クラスでも、ポストから出てくる文句があまりにもひどい。

「先生、あんなポストがあるから、雰囲気わるくなるんだよ」

という<ちょいかしこ>の女子の発言もあったくらいで・・・。

呪いの権化のようになってしまった反抗挑戦性障害のS子が、ポスト、という装置の働きに反応して、あれだけの文句を書き散らした紙を入れ続けた、というのが、今となっては彼女の心からの<救いを求める叫び>だったのではないか、とも思える。それを受容的に肯定的に受け取って、「わかってもらってよかった」という感覚をうんと植えつけてあげることができたら・・・。

ともかく、今年のクラス会議は紙ベースでどんどん裁いていく。
あと、書いた子の名前は紙には書かない。
だから、何を書いてもいい。誰が書いた文なのか、分からないから気が楽だ。おまけに、解決に当たってはすべて一般的な事象として、客観視しながら策を考える。これがいい。