叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

どんな子を育てるのか の共通理解はあるのか?


この土日は、モリコロパークへでかけて、見事な紅葉を楽しんでまいりました。
愛知県人として、こういうすてきな公園がいたるところにあるのは、本当にありがたい。
11日はイベントがたくさんあるとのことで人が混みそうでしたので、10日の土曜日に行きました。それでも人がたくさん。でもまあ、広いし、気にはなりません。
いつものように、広場でゆっくりとしてすごしました。

愛知県にはすてきな公園がたくさんありますが、古参の「東山動物園」も、本当にすばらしい。何十年も、市民の憩いの場所でありつづけているどころか、グレードアップしている気もする。いつもいつもきれいに整備されているし、飽きないで行けるのがいい。何よりも、小学校、中学校、高校時代の思い出(甘酸っぱいのも含めて)が、その場所場所に隠れていて、そこを何気に通ることだけで、記憶がよみがえり、心を刺激する。人生の、しあわせの道を歩いているように思う。

それはそうと、モリコロパークはいいところなのですが、そこでねそべって、キラキラと笑いながらボールを追いかけている子どもたちを見ながら、思ったこと。

少し前になるのですが、尊敬するYさんのブログに、石牟礼道子の「民話としての学問」についてふれていた文章があって、興味深く読んだ。


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「いばらや、とげで、服は破き、手足はひっかき傷だらけになって、子どもが帰ってくる。収穫物のモチの木の皮だの、ニッケイの根だのでポケットがふくらんでいる。ニッケイというのはシナモンの原木をいう。かじれば独特の香りと甘みがする。鼻の頭がツバキの蜜だらけなのは、メジロかごをどこかに隠しているにちがいない。」

(↑これは、学校をさぼって山へ遊びに行ってばかりの子どもたちの描写である。)

そこから石牟礼は、60過ぎたその当時のワンパクが集まって同窓会のようににぎやかに歓談する会話を書いている。

「(たまには学校へ)顔出しておかんば、先生の顔つぶすちおもうて、たまにはゆきよったぞな、学校にも」

「そうじゃ、よか先生じゃった。たまに顔出せば、ほう、よう来たねえち、喜びよらした」

「昔の学校はよかったねえ。それで先生が、山学校はよっぽどよかばいねえ、こんだの日曜に先生も連れていってくれんかいち」

「うん、それでみんなで案内して、ツバキの花もって、メジロの呼び方はこう、トリモチの作り方はこう、ウサギ道はこげんしとるち言えば、ほう、ちゅうて、おまえとこうやって、山学校しとるほうがおもしろかねえち」


(↑ここまでは、同窓会に集って当時を懐かしみながら語る人たちの描写)


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これによると、学校へこないでも、子どもたちは、よっぽど「生きる力」を養っていたではないか。

学校って、何なん?

と、思わずにはいられない。

何を思って、何をねがって、教員は、教室へ行けばいいのか。

子どもたちの、どんな姿をねがっているの?



最近、このことの、世間的な共通理解は、ないのだ、
と思いはじめた。
昔は、やれ、教育基本法だとか、やれ学習指導要領だとか、に答えがあるのだと考えていたが、心の底では、そんなところには解はなかろう、とすでに感じとっていた。


たまの土日にモリコロパークのような場所にくると、ふと、そんな根源的な問いを考えてしまう。

空は澄み渡って、秋の晴れた日ほど、ものを思うにふさわしい。
しんと静まり返った夜の静寂もいいけど、冬の、凛としたきびしい寒さを感じながらの思索もいいけど、暗くなりがちだからなあ。
こんな、ぴーんと澄んだ、きれいな秋空に、子どもの歓声を聞きながら、ものを思うのが、いいなあ。