叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

結局、今の学校に必要なのは「教育」の前に、「福祉」だということ。


また、言っちゃった。
このところ、爆弾発言ばかりでるのう・・・。
これも、庭にながめる柿の木が、あまりにも風流で、遠目に見える山の肌が、いっせいに色づき感傷を深くするからだろうか・・・。

愛知県の、ひなびた田舎町に暮らしながら、あれこれ、思うことも多い。

気分を変えたくて、師勝(現・北名古屋市)に住む親戚の叔父を訪ねた。

叔父は、長く教育畑を歩いてこられた人。
現場をよく知る方でもあります。
今でも、まあまあ、元気で畑仕事などしている。
公民館で少し働いていたこともあったけど、今ではそれも、ごくたまーに付き合い程度だ、ということであった。


教育、というもののゴールがことさらに見えにくくなっている今、学校ではいったい何を思いながら子どもの顔を見ていればいいのだろうか、ということ・・・。


「けっきょくな、教員はなにか教えたつもりになってるかわからんけど、どうだろな。」

いやあ、最初からそんな達観されたようなことを言われても・・・
こっちは、授業の指導案の、一字一句に頭を悩ましているレベルなのだし・・・

なにか書きものでもしていたようでありましたが、それを中断したのか、机の上には万年筆がありました。
車で運転してきたので、ワインはお断りをして、チーズだけいただきます。
チーズと麦茶、という妙な取り合わせでも、けっこういける。

「ともかく、気力?・・・それをつけてやるのが一番じゃないか」

わたしが、気力が大事だと思う、というと、すぐにそう答えてくれた。
これはリップサービスっぽい。
いや、何十年も子どもを見てきた人なんだから、もう少し、なにか言ってほしかった。
すくなくとも、今の教育のどこがどんなふうなんだか、俯瞰した情報がほしい。
頭の中身を整理したいのだ、といってみた。
叔父さんの立場で、今ふりかえって見えてくるものがありはしないか。

「そうねえ・・・。子どもは、前向きに、いろんなことをやってみよう、・・・というのでいいんじゃないの」

こちらの期待する答えを言ってくれようとしているのか、言葉を選んで、シンプルに伝えようとしてくれる。

「いや、その、やってみよう、という気力すらない場合は?」
「そこまで疲弊してるか?!・・・それはどうかなあ。そういう子には、元気をつけてやらんとね。安心させんと。だいじょうぶ、やってみよう、と自分で自分のことを思えるようにしてやらんと」

「それには?」
「教室で、自分の抱えているしんどいところをさらけ出すのは、実はとてもむずかしいことだね。それがやれるんだったら、かなり学級としては完成しているだろ。しんどさを受け止めてもらえる、という安心感がないとやれんから。そういう雰囲気の中で、しんどさを出せる、というのがまず一番なんじゃないの」

しんどさ、か~。

「どうなの。そのあたりは・・・」

うーん、どうだろう。
出してくれている、という気もするが、まだ出し切れていない子もいるだろうし、抱えているままに、自分でなんとか処理しようと思っている子もいるだろうか・・・。

「ともかく、小学校も中学校も同じで、子どもはほとんど、しんどい面をもっていると思うよ。自分のことを本当に理解してもらっている、という感じの子は、ざんねんだけど少ないからねえ。まずは、どの子も、本当に安心して学校に来れているのか、という点は、非常に大きな点だと思うけどねえ」

そんな心の状態に気を配れているかというと、なかなかそうでもない。
学校が、そこまでいちいち、配慮していくのがふつうなのだろうか。
当然だ、と言われればそういう気もするし、なにか、学校ができる範囲以上のことを言われている気もする・・・

「まあ、実際には授業も行事も、すべてやることは多いし、現場の先生はたいへんだと思うよ。よくやっているよなあ」

そんなふうになぐさめてもらいに来たわけでもないんだけど・・・でも、そうやって言ってもらうと、なんだか、しん、としてしまう。

「子どもが追い詰められていることを前提に考えるのであれば、今学校に必要なのは、教育というんじゃなく、先に福祉がくると思うよねえ。まあ、大きく考えれば、教育の中に福祉的な要素も当然のようにあるんだろうけどねえ」

うーん。
ここが一番心にのこったところです。
つまり、学校には、福祉が要るのです。

そうかあ、福祉かあ・・・

そう言われてみると、子育ては福祉の領域に近い気がする。
教育、というよりも・・・。
自分の子がまだ小さいから、こんな気分になるのだろうか・・・。

しかし、ちょっと気になることもある。
福祉というと、世間的には、どうもあまりにも多様に使われ過ぎたきらいのある言葉だ。
福祉、という言葉を、いろんな立場の人が、自分寄りに、強引に使い過ぎている。
だから、ある立場の人はすごく神聖なものとするし、別の立場からすると、厄介なもの、という人だっている。
わたしの意見とはいっさい無関係に、多くの人が、自分の立場で都合よく、「福祉」という言葉を使うことができる。

だから、こんなふうな使われ方もしてしまう。

■北欧のある国々が、福祉国家を標榜しているが、自殺率が高すぎて、問題がある。

福祉の仕事をしている知人に言わせると、本当の福祉国家、というのは未だ人類はつくったことがないのだそうで。
北欧も福祉が充実している、というのは制度的にはそう見えるけれど、実は心が満たされる人間関係にはなっていないから、そりゃ自殺もあろうな、ということでありました。

ここまでのことをふまえて、まとめると、

北欧諸国が制度として取り組んでいる「福祉」、ということとはちがう「福祉」の意味でもって、
今の学校やクラスや子どもに必要なのは、本来の意味の「福祉」であり、
いわゆる「教育」は、その「福祉」が子どもをつつみこんでいるのを前提にして成り立つ


・・・ということ。

おじさん、なるほどねえ。
昔から論客っぽかったけど、今でもなかなか語りますねえ。

おじさんはその後、やたらとくだけた話をしたがっていたけども、私はむしろ自分でこうまとめたことに、ちょっといったん一息ついた気分になり、その気分をこわさないうちに、姉から預かった届けモノだけとどけて、早々にさようならをしたのでありました。

まさか、教育より先に、福祉が、くるとは・・・。