叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

どこにも角が立たないようにするのが学校運営

「エーッ!そんなことしたら、角が立つかも・・・」


という恐れ。

これが、学校の隅々に、息づいている。

「おっと!」


あぶない、あぶない・・・。

そんなことしたら、

怒られる、責められる、変に思われる・・・




それで、PTAが企画する「交流会」は、どんどんと縮小し、無難になり、前例に倣うことになる。

「責められないためには、どうするか。」と考えるようになる。

「去年はそうしたみたい」

「じゃ、それでやりましょう」





昨年通りに遣れば、どこから文句が出ても、

「だって、昨年も、それでやったということだったので!」

と、申し開きができる、というわけ。



きっと、責められるにちがいない。



という前提が、そこには十分、存在している。





そんな企画なら、やらなくてもいいんじゃ・・・


と思うけど、やめられません。

なぜなら、去年もやったからネ。

「なんで止めたんだ!!!」


と責められない、唯一の方法が、

「昨年通り」

というやつ、です。




で、実際のところ、だれも願っていない世界がそこに実現し、

みんな、白けて参加し、

「なんだか疲れる」

と愚痴を言うわけね。

「なんでこんなのやってんだろ」

「付き合いよ、付き合い。大人はこれくらい我慢しないと」



あとで、喫茶店でみんなが本音を言い出すと、

「こんなの、はやく辞めたいよね」

ということで一致し、その一致のあまりの符合っぷりに、その場に居合わせた一同が、全員驚くことになる。

だれも願っていないことを、

さも、だれもが願っているかのように取り扱って、

嘘の仮面をつけて、

「はい、たのしかったですね~。来年もたのしみです」

と言わなきゃならん、この苦しさ。




何が苦しいって、本音を言えないことだね。

ナチスが台頭し、ファシズムが世間を席巻したときも、なにがいちばん人々にとって苦しかったかを想像すると、おそらく、「本音を言えなかった」ということだろうと思う。

たぶん、そのくらい、程度の低いことなんだろうと、思う。

基本的に、保護者同士が、仲良くなっていないので、学校の行事は、結局このようなことになる。






どうしたらいいんだろうか?

わかりきってる。

仲良くなればいい!

そしたら、こんなぎくしゃくした間柄なんて、あっという間に、解決だ!


だけど、保護者同士が仲良くなるってこと、これが、世間の最大の、教育界のもっとも、いちばん重要な課題であり、解決しなければならないことであるとともに、もっとも難しいとされていることなんだと思います。

みんな、この、

責められるかもしれないという恐れ


によって、本音を言えない苦しみに苛まされているんだから・・・。

こうしたジレンマを解決する方法を考えたら、おそらくその方には、ノーベル平和賞が授与されるでありましょう。

このくらい大事なことなのに、だれも、この問題に、触れようとしない。


本音言うなんて無理だ。
仲良くなるなんて無理だ。

アキラメてる。


だって、あの人もあの人も、すぐに腹を立てるんだもの。
なにかあったら、すぐにイライラするんだもの。
気を悪くして、眉間にしわを寄せるんだもの。



「人間に対して腹を立てる」

これが無くならないと。。。。。