叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

学校に欠けているもの

それまでは拒否をして、体育館にさえ行こうとしなかったTくん。
連れて行こうとすれば、大声で抵抗して、走り回っていたTくん。

体育座りをして、校長講話を聴けるようになった、のは、

Tくんが、大人の願いを聞き入れた、ということだろう。

今度は、逆に、大人が、Tくんの願いを、受け入れて、育てていく番じゃない?



で、聞いてみたわけ。

「Tくん、Tくんの願いって、なに?」
「無い」


「なにか、こうしたい、とか、学校でこんなことやってみたい、というの、ある?」
「無い」


「(マジ?)なにか、ないかなあ?」

こっちは、あるはずだろう、と思っているから、しつこく聞く。

するとTくんは、なんでこんなにしつこく聞くんだろう、と不思議そうな顔つきで、

「??? ないけど・・・。」




つまり、学校の課題が、ここに凝縮されて、見えてくるわけだ。

学校には、やろうと思うことがない。
学校には、魅力的なプロジェクトがない。


いや、学校には本業の学問があるだろう、それが子どもの仕事だ

と、我々大人は考える。

しかし、Tくんにとっては、それは仕事には見えてこない。
こだわるものでもない。
べつに、やらないでよければ、やらないし、やりたくもない。その気がない。


大人は、そんなTくんの気配を感じると、焦ってしまって、

「勉強をさせなければ」
「掃除もさせなければ」
「みんなといっしょに行動できるように、適応させなければ」

それで、あっちこっちと汗を流し、なだめたり脅したり賺したりしてよくよく言い聞かせながら、

なにかを、させようとする。





させよう、とは、思わない。

Tくんの顔を見ながら、ボーッとする時間が、確保されること。

それが、学校には、ないんだ。

忙しすぎる学校生活から離れて、

ゆっくり、ボーッと、学校で、Tくんといっしょに、時間を忘れて、すごしたい。




学校生活に、<暮らし>、ということが、もっともっと、目に見えるように、なること。

ともに暮らしている、という実態が、誰にでも実感でき、より分かりやすいように、なってくること。

大事にされてくること。



・・・無理かなあ・・・