叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

ほめる目的は

「子どもは、ほめられたいはず」と、思っている先生が多いのではないか。

これ、かなり、世の常識になっていると思う。

教育学のえらい先生の書いた本を何冊か、読んだ。
いろいろと述べてあって、最後の方に、結論中の結論のようにして、書いてあるのが、

「つまるところは、子どもの尊厳を価値づける、認める、ということであろう。周囲社会、とりわけ親や教師によって認められてこそ、子どもは自分自身の肯定感を強くもてるようになるのである。古くから言われるとおり、子どもは”褒めて育てよ”ということに尽きるであろう」



まあ、こう話をされて、異論を唱える人はまあめったにいない、というくらい、世の中に常識として流布されている。


ところが、ここまでずっと、私なりに「考える教師」をやってきて、かなり濃厚な程度に、こう思うようになった。




ほめるは、あぶない!




まあ、ほめる、という言葉ほど、誤解されている言葉もないように、思う。

ほめることはいいことだという思い込みは、かなりひどい。

それで、ほめてほめてほめあげた挙句、子どもが自信をなくし、肯定感の足元をおぼつかなくさせている、ということに、気づかない先生も多いのではないか。


あぶない褒め方は、
子どもを見ていないで、ほめる、
のである。

子どもの実態や心中にあるものとはまったく異質なものを、ほめている。


たちの悪いことに、子どもは、自分をほめてくれている親を、正面から批判しにくい。

「ちがうよ。自分はそうではないよ」

と、訂正しにくい。

だって、表面的には、ほめてくれているからね。


だけど、心中は、もはや寂しくて、冷え込んでいる。

「ほめてもらっているようだが、なんだか嬉しくないな」

と、異質なものに、自ら気づくような子だったら、まだカムバックできる。

だけど、それにも気づかないようだと、真綿で首を絞められるように、静かに、音を立てずに、自分が自分でなくなるように仕向けられていることを知らないまま、親の意向にコントロールされていく。

このことに、実は本心では気づいているから怯えているし、心の奥ではそれを拒否したい気持ちがあるから、子どもの心は混とんとしていく。

自由で、のびのびしている先生だったら、子どもをそんなふうに操作したいと思わない
だから、子どもも助かる。



子どもを見ないでほめる、というの。

これ、やればやるほど、迷惑だよね。

でも、「いいことだから」と、やろうとする。

マジメで評価されている先生の中には、熱心に、子どもを褒める先生がいる。

でも、マジメで評価されている先生だから、子どもをそのまま受け入れている、とは言えないと思う。




子どもの顔、目、表情、そんなところに、ある程度、正直に表れてくる。

つめたく、冷めていて、不満そうで、疲れている目。

どうして、自分の話を、気持ちを、存在を、受けてくれなかったの、という目。



ほめて、ほめて、これでもか、というくらいにほめたんだから、いい子に育つはず。

⇒ そうとはいえない。





子どもをコントロールしようとして、自分の気に入ったように操作しようとして、ほめる。




ほめる目的は、なに?

↑ これを、つい、我々教師は、忘れちゃうのだろうね。


なんでほめるの