「ひとのせいにする」を話し合う
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クラスに、3人、牛乳当番がいる。
当番は、給食室へ、牛乳瓶を返しに行く。
33人学級だから、3人で分担して、一人がちょうど、11本ずつだ。
ところが、返しに行くとき、10本きりしかないのに、出発しようとする子がいる。
1本は、他のメンバーに任せてしまうのだ。
こうなると、牛乳を返しに行く本数に、差が出てくる。
1人は、10本。
もう1人は、11本。
そして残った一人が、12本。
もちろん、11本が正規の数だ。
まあ、1本くらいなら、
「あれ。12本あるぞ!」
と言いながらも、持っていく子が多い。
ところがこの日、他の2人よりも先に、8本でもっていこうとした子がいた。
つまり、
1人め ⇒ 8本
2人め ⇒ 11本
3人め ⇒ 14本
こうなった。
そして、3人目の子が、
「多すぎだろ!これは!!」
と怒り出した。
結局、途中で8本の子が訂正し、全員11本となったのだが・・・
こんな程度のことが、頻発するのが、小学生なわけです。
おそらく、こういうことを、ああだこうだ、という風に、話し合うことができる、というのが、小学校の一番、おもしろいところです。人間のあり様をさまざまに検討できるという点で、こういう時代は、貴重なのでありましょう。
人生の中で、小学校は、ある意味で一番、「人間の生き方」を考えられる時期なんじゃないでしょうか。
大人は、すでにあまりにも巨大な問題を相手にしなければならず、
「人間の生き方? ・・・それどころじゃねえだろ!」
という状態なので。
緊急かつ喫緊の問題に、全力で対処しなければならない。
根本から考えることはほとんど不可能。
法律や政治の問題など、複雑極まりない事象を、どれだけ複雑に考えられるか、という競争です。
勝つか負けるか、とりあえず、目の前の土俵で、寄り切るか、切られるか、という感じですものね。
というわけで、小学校だけかも・・・。
こうして、人間の行動、ふるまい、考え、心情、ありとあらゆる人間の問題を、根本から考えることのできる環境は・・・。
さて、牛乳瓶の数を誤魔化そうとした事象で、わがクラスは・・・
とまあ、こんな黄金ルールで進んでいきます。
このとき、5)の、最後のところが、一番、盛り上がる。
今回は、平和のうちに幕を閉じた。
つまり、誤解だったのだ。
まだ牛乳を飲み干していない子が教室にいたから、8本で持っていっても良い(つまり給食の終わっていない子は自分で給食室に返しに行くルールだから)、と早合点したせいだ、ということが分かり、意地悪で8本しかもっていかなかった、ということではなかったので、みんな和やかになった。
さて、話し合いのうちにいろいろと、各自が思いを抱いていることまで、分かってくる。
「おれ、別に誰かが頼んでくれるんだったら、少しくらい余分に、持ってもいいよ」
と、優しい男子が言う。
また、
「Mちゃんが体育館で場所取りしてくれてるから、Mちゃんが当番の時は、、みんなで持っていってもいい」
などと、いろいろな意見が出てくるのが、面白い。
こういうことは、話し合いをしない限り、浮かび上がってこない。
だから、話し合いの最後に、
「話し合って、よかったよねえ」
というと、みんな、
「うんうん」
という。
さらに、続きがある。
「このまま、最後の当番の子が腹を立てながら、牛乳瓶を持って行ってたら、どうなっただろうね」
と、話を進展させると、
「○○くんのせいにしたままだったかも」
と、当事者の子が言う。
「ひとのせいにしているときって、大体、しっかりと話をしてないことが多いかもね」
「話し合ったから、○○くんの考えてたことがわかったけど、話さなかったから分からんかった」
今後も、何かあれば話し合っていこう、というと、
ほぼ全員が同意した。
この後は、おきまりの、ハレハレマーク。
ほとんど毎日、このマークを指さしている。
私はクラス中を見回して、
「今日は、なんだか、こーんな感じだったね」
といって、解説をする。
先に、怒りマークを指さして、
「ひとのせいにしているとき。」
で、一呼吸おき、次に、ハレハレマークを指さして、
「よく話し合ったとき。」
「どう?」
「うん」
クラス会議のあと、男子と女子の会話が聞こえてきた。
「うちのクラス、話し合ってばかりだね」
「いいじゃん。算数やるより、こっちのほうが」
なーんじゃ、そりゃ。
クラスに、3人、牛乳当番がいる。
当番は、給食室へ、牛乳瓶を返しに行く。
33人学級だから、3人で分担して、一人がちょうど、11本ずつだ。
ところが、返しに行くとき、10本きりしかないのに、出発しようとする子がいる。
1本は、他のメンバーに任せてしまうのだ。
こうなると、牛乳を返しに行く本数に、差が出てくる。
1人は、10本。
もう1人は、11本。
そして残った一人が、12本。
もちろん、11本が正規の数だ。
まあ、1本くらいなら、
「あれ。12本あるぞ!」
と言いながらも、持っていく子が多い。
ところがこの日、他の2人よりも先に、8本でもっていこうとした子がいた。
つまり、
1人め ⇒ 8本
2人め ⇒ 11本
3人め ⇒ 14本
こうなった。
そして、3人目の子が、
「多すぎだろ!これは!!」
と怒り出した。
結局、途中で8本の子が訂正し、全員11本となったのだが・・・
こんな程度のことが、頻発するのが、小学生なわけです。
おそらく、こういうことを、ああだこうだ、という風に、話し合うことができる、というのが、小学校の一番、おもしろいところです。人間のあり様をさまざまに検討できるという点で、こういう時代は、貴重なのでありましょう。
人生の中で、小学校は、ある意味で一番、「人間の生き方」を考えられる時期なんじゃないでしょうか。
大人は、すでにあまりにも巨大な問題を相手にしなければならず、
「人間の生き方? ・・・それどころじゃねえだろ!」
という状態なので。
緊急かつ喫緊の問題に、全力で対処しなければならない。
根本から考えることはほとんど不可能。
法律や政治の問題など、複雑極まりない事象を、どれだけ複雑に考えられるか、という競争です。
勝つか負けるか、とりあえず、目の前の土俵で、寄り切るか、切られるか、という感じですものね。
というわけで、小学校だけかも・・・。
こうして、人間の行動、ふるまい、考え、心情、ありとあらゆる人間の問題を、根本から考えることのできる環境は・・・。
さて、牛乳瓶の数を誤魔化そうとした事象で、わがクラスは・・・
1)クラス会議を開く。
↓
2)なにがあったのか、わかりやすくリプレイする。
↓
3)その時の、それぞれの関係者の本音を出し合う。
↓
4)なにがしたかったのか、どうしたかったのか、願望を出し合う。
↓
5)どうしたらよかったのか、他の方法は考えられなかったかを振り返る
とまあ、こんな黄金ルールで進んでいきます。
このとき、5)の、最後のところが、一番、盛り上がる。
今回は、平和のうちに幕を閉じた。
つまり、誤解だったのだ。
まだ牛乳を飲み干していない子が教室にいたから、8本で持っていっても良い(つまり給食の終わっていない子は自分で給食室に返しに行くルールだから)、と早合点したせいだ、ということが分かり、意地悪で8本しかもっていかなかった、ということではなかったので、みんな和やかになった。
さて、話し合いのうちにいろいろと、各自が思いを抱いていることまで、分かってくる。
「おれ、別に誰かが頼んでくれるんだったら、少しくらい余分に、持ってもいいよ」
と、優しい男子が言う。
また、
「Mちゃんが体育館で場所取りしてくれてるから、Mちゃんが当番の時は、、みんなで持っていってもいい」
などと、いろいろな意見が出てくるのが、面白い。
こういうことは、話し合いをしない限り、浮かび上がってこない。
だから、話し合いの最後に、
「話し合って、よかったよねえ」
というと、みんな、
「うんうん」
という。
さらに、続きがある。
「このまま、最後の当番の子が腹を立てながら、牛乳瓶を持って行ってたら、どうなっただろうね」
と、話を進展させると、
「○○くんのせいにしたままだったかも」
と、当事者の子が言う。
「ひとのせいにしているときって、大体、しっかりと話をしてないことが多いかもね」
「話し合ったから、○○くんの考えてたことがわかったけど、話さなかったから分からんかった」
今後も、何かあれば話し合っていこう、というと、
ほぼ全員が同意した。
この後は、おきまりの、ハレハレマーク。
ほとんど毎日、このマークを指さしている。
私はクラス中を見回して、
「今日は、なんだか、こーんな感じだったね」
といって、解説をする。
先に、怒りマークを指さして、
「ひとのせいにしているとき。」
で、一呼吸おき、次に、ハレハレマークを指さして、
「よく話し合ったとき。」
「どう?」
「うん」
クラス会議のあと、男子と女子の会話が聞こえてきた。
「うちのクラス、話し合ってばかりだね」
「いいじゃん。算数やるより、こっちのほうが」
なーんじゃ、そりゃ。