「どうして?なんで?」 と聞かれたくない子
.
「○○したい」
という自分の願いや願望、要求を、そのまま素直に表現できるだけで、人生がずいぶん楽になると思う。
「そんなこと言ったって、実現しっこないから、言うだけムダ」
という考えもあるでしょうが、
その前の段階で、それを表現できない、あるいは表現してもしょうがない、というアキラメに似た感じを持ち、自分の気持ちの表出に対して、ふたをしてしまっているのは、なんともツライのではないかと思うのです。
言ってどうなるかはその次のことであって、
最初に、自分の、ありのままの要求を、まずは言える、出せる、というのは大事なことです。
まあ、大人になるにつれて、
「べつに言ってどうなるってわけじゃなし」
と、賢く考えるようになるのでしょうが、
それにしたって、○○したい、と、つぶやける、というのだけでも、ありがたい環境です。
そもそも、人間として生まれて、
周囲に自分の要求を受け入れてもらえる、聞き入れてもらえる、ことがあるだけで、人間と言うのは安心感に包まれて、幸福になっていくのですから、
ケチらずに、やってあげたらいいと思うのです。
とくに子どもには・・・。
ところが、ね・・・。
○○したい、というのを言わない子が多いのですよ。
なぜかというと、○○したい、といった瞬間に、
「どうして?」
って、理由を「請求」されるから。
「どうして?」
とこちらが、なにげなく聞いたところ、
「それ。理由を言わないといけないんでしょ。もういいよ」
と、疲れた表情を浮かべて、ふらーっと、自分の席に戻ろうとします。
つまり、理由をうまく言う、ということが、かなりストレス。
だいたいいつも、こういう場面で、上手く言えたためしがないそうです。
こちらはかるーく聞いているニュアンスだから、なんだかその意識のズレに、逆にびっくり。
「どうして?」
と聞くと、
反射的に、
「わかんない」
という子もいます。
つまり、この子は、
詮索されたくない症候群
なのでしょうね。
うまく理由を言えないのを、なんとなく、大人が、
○叱りつけてきたか
○拒否してきたか
○なじってきたか
○「理由も言えないの」と馬鹿にしたか
○「理由が言えないならダメ」とダメにしたか
・・・なんだろうと思います。
だから、うまく説明できないのを、あらかじめ防衛線を張って、反射的に
「わかんない」
というんだろう。
大人は本当に理由を聞きたがるから、面倒くさいよね・・・。
ところが、現実は、「わかんない」、では、済ませられなくなってくる。
友達どうしで話し合う時も、理由が言えないと、多くの友達の賛同を得られないことだってある。
学級会でも、理由が無い意見は、みんなぴんとこないしね。
理由がない、ということで、軽んじられる、無視される、ということになりかねない。
現代文明に暮らす中で、理由を言える、ということは、とても大事だ。
理由を言うのって難しい。
これは、
詰問調でなく、安心してゆったり話せる雰囲気のもとに
「○○○だから、○○したいってことかな」
と、理由を言える練習をしてあげるのがいい。
最初のうちは、理由らしきことが言えたら、それを認めてあげたい。
理由を言える子になると、かなり、周囲の皆んなが、納得してくれるようになる。
さらには、理由が言えるようになると、よく考えて、行動するようになるよね。
衝動的な、感覚的な、反動的な、やむにやまれぬ動きが減って、
自分の願っていることは何か、と、焦点をしぼって、行動するようになる。
こういうこと、落ち着きのある行動を増やすためにも、
詰問ではなく、
温かい空気の中で、
「どうして、それがしたいのかな?もうちょっと教えてね」
「○○だからかな、それとも、△△だからかな?その両方?」
と、うながしてあげるのがいい。
ほんとうは、理由が言える、ということが重要なんじゃなくて、
自分にとって、どの理由が一番重要か、ということを子ども自身で考えられることの方が大事なんだろう。
言うのが大事なんじゃなくて、本人が考えられるようにするのが大事。
それを、言わせよう、言うのが大事、とサカサマにするから、違和感が出る。
「言わせよう」とするから、「言えなくなる」。
こんなことばっかり。
↓ でかい
「○○したい」
という自分の願いや願望、要求を、そのまま素直に表現できるだけで、人生がずいぶん楽になると思う。
「そんなこと言ったって、実現しっこないから、言うだけムダ」
という考えもあるでしょうが、
その前の段階で、それを表現できない、あるいは表現してもしょうがない、というアキラメに似た感じを持ち、自分の気持ちの表出に対して、ふたをしてしまっているのは、なんともツライのではないかと思うのです。
言ってどうなるかはその次のことであって、
最初に、自分の、ありのままの要求を、まずは言える、出せる、というのは大事なことです。
まあ、大人になるにつれて、
「べつに言ってどうなるってわけじゃなし」
と、賢く考えるようになるのでしょうが、
それにしたって、○○したい、と、つぶやける、というのだけでも、ありがたい環境です。
そもそも、人間として生まれて、
周囲に自分の要求を受け入れてもらえる、聞き入れてもらえる、ことがあるだけで、人間と言うのは安心感に包まれて、幸福になっていくのですから、
ケチらずに、やってあげたらいいと思うのです。
とくに子どもには・・・。
ところが、ね・・・。
○○したい、というのを言わない子が多いのですよ。
なぜかというと、○○したい、といった瞬間に、
「どうして?」
って、理由を「請求」されるから。
「どうして?」
とこちらが、なにげなく聞いたところ、
「それ。理由を言わないといけないんでしょ。もういいよ」
と、疲れた表情を浮かべて、ふらーっと、自分の席に戻ろうとします。
つまり、理由をうまく言う、ということが、かなりストレス。
だいたいいつも、こういう場面で、上手く言えたためしがないそうです。
こちらはかるーく聞いているニュアンスだから、なんだかその意識のズレに、逆にびっくり。
「どうして?」
と聞くと、
反射的に、
「わかんない」
という子もいます。
つまり、この子は、
詮索されたくない症候群
なのでしょうね。
うまく理由を言えないのを、なんとなく、大人が、
○叱りつけてきたか
○拒否してきたか
○なじってきたか
○「理由も言えないの」と馬鹿にしたか
○「理由が言えないならダメ」とダメにしたか
・・・なんだろうと思います。
だから、うまく説明できないのを、あらかじめ防衛線を張って、反射的に
「わかんない」
というんだろう。
大人は本当に理由を聞きたがるから、面倒くさいよね・・・。
ところが、現実は、「わかんない」、では、済ませられなくなってくる。
友達どうしで話し合う時も、理由が言えないと、多くの友達の賛同を得られないことだってある。
学級会でも、理由が無い意見は、みんなぴんとこないしね。
理由がない、ということで、軽んじられる、無視される、ということになりかねない。
現代文明に暮らす中で、理由を言える、ということは、とても大事だ。
理由を言うのって難しい。
これは、
詰問調でなく、安心してゆったり話せる雰囲気のもとに
「○○○だから、○○したいってことかな」
と、理由を言える練習をしてあげるのがいい。
最初のうちは、理由らしきことが言えたら、それを認めてあげたい。
「なるほどね!それでいいよ」
「そういってもらえたら、うんとわけがわかって、応援したくなるよ」
「そういってくれるから、きちんと、そうしてあげたくなるよ」
理由を言える子になると、かなり、周囲の皆んなが、納得してくれるようになる。
さらには、理由が言えるようになると、よく考えて、行動するようになるよね。
衝動的な、感覚的な、反動的な、やむにやまれぬ動きが減って、
自分の願っていることは何か、と、焦点をしぼって、行動するようになる。
こういうこと、落ち着きのある行動を増やすためにも、
詰問ではなく、
温かい空気の中で、
「どうして、それがしたいのかな?もうちょっと教えてね」
「○○だからかな、それとも、△△だからかな?その両方?」
と、うながしてあげるのがいい。
(ところが、多くの場合、大人が詰問調になるのは何故なんだろうか。
さらには、理由が言えないことを責める風潮があるのは何故なんだろう。)
ほんとうは、理由が言える、ということが重要なんじゃなくて、
自分にとって、どの理由が一番重要か、ということを子ども自身で考えられることの方が大事なんだろう。
言うのが大事なんじゃなくて、本人が考えられるようにするのが大事。
それを、言わせよう、言うのが大事、とサカサマにするから、違和感が出る。
「言わせよう」とするから、「言えなくなる」。
こんなことばっかり。
↓ でかい