叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

「学ぶことを今すぐやめよう」IQ170の13歳少年が持つ視点がすごい

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すでに今ある常識や概念、約束、ルールなど。
今ある常識が、すべてのたたき台だ。みんなの共通の言語だ。
これらを学ぶのはとても大切なこと。
なぜなら、多くの人が、共通の言語で情報のやり取りをするのだから、その共通の言語を知らないと困るから。

しかし、共通言語、とされているものがある一方で、「方言」というものもある。
独自の考察を加えて、独自に概念化したもの。
その概念から、ネーミングされた、「こと、もの、意味」がある。

たとえば、たわけ、という言葉がある。
岡崎をふくめて三河尾張では通じる言葉、概念だが、これは翻訳ができない。
だって、バカとはちがうし、アホとも違う。
ニュアンスが違うので、これは説明のしようがない。
これは、実は、グローバル化されないもの。
どうしても、ローカルでありつづける運命を背負ったもの

これからの世の中は、グローバルの一方で、ローカルが見えてくる時代になる。
なぜなら、グローバルの方向が目立てば目立つほど、とり残されたローカルも、くっきりと見えてくるからね。
グローバルで幸福になると信じている人もいるけど、実感としてはローカルで幸福になる、と確信している人もまた大勢いる。(増えている?)少なくとも、わたしはそうだ。

さて、共通言語(グローバル)は大事だということは、客観的にも正しい。
英語をうまく利用すれば、かなり多くの国の人とおしゃべりが楽しめる。

一方で、その人そのものに焦点をあてて、その人自身のことをよりよく知ろうと努めるのであれば、話は違ってくる。やはり台湾の人と話をするときには台湾の言葉が一番良いし、シンガポールの人と話をする時にも、英語でもOKだけど、本当にその人そのものにぐっと深く近寄っていきたい場合は、もしかしたらマレー語の方がいいかもしれない。

要するに、グローバル(共通言語)も大事だけど、ローカル(その人自身の言語)も大事なのだ。

これまでは、グローバルを覚えなさい、でないと苦労するからね、という学習がほとんどであった。グローバルを勉強した人、グローバルに通じる人が、重宝された。そして、あまりローカルに重心が置かれなかったのだ。
その人そのもの、その人自身、その暮らし、そのコミュニティ、その地域には重心が置かれなかった。


ところが。
これからの時代、その人自身の内面に重点が置かれる。
教育もそうなる。
たとえば、美術鑑賞教育の世界では、すでに革命が起きている。

ミレーの作品、ゴッホの作品、モネの作品、印象派なのかそうでないのか。
フランスかイタリアか。
ミケランジェロよりも先か後か。
ピカソ、青の時代をどう評価するか。

そんなことが、学習の課題にはならなくなった。

そうではなくて、

あなた自身が、どう感じ取り、その感じや印象を、どう言葉で表現し、仲間とコミュニケーションするのか。


ということに、焦点が当たり始めている。
だから、テストも変わる。
印象派の代表的な作家を3人あげなさい、という従来のテストは行われない。
あまり価値がなくなってきた。これは、グローバル化とはベクトルの違う、新しい動きだ。
どちらかというと、思い切りローカルなテストだ。だって、自分自身の主観で判断してよい、ということだもの。

クラス全員の前で、自分がこの絵の内容を、どう感じているか、どう受け取ったのか、3分間ずっとしゃべりつづけることができる、ということが評価される。
ほとんど、主観でよいのだ。グローバルな視点での情報は最小限でよい。(あるいは無くても問題視されない)

時代は変わり、生きる力を育てようとする。それは、印象派は誰かという知識ではない。
わたしがその絵とどう関わり、意見をもつことができたか、ということ。私自身のローカルな取り組みが大事なのだ。それこそが、生きる力なのだ。


ここに、こんな動画がある。

「学ぶことを今すぐやめよう」 IQ170の13歳少年が語った、天才の条件
http://logmi.jp/19098

この天才くんの言う、「学ぶこと」は、従来の学びスタイルのことを指している。
つまり、印象派が誰か、ということはそれほど良いことじゃないね、ということ。
その代り、自分自身がどう考えるのか、創造するのか、ということのほうが、もっと知的だし、ワクワクする。そして、実はその思い切りローカルな発想や主観的な判断の内容が、他の人にとっても参考になるし、あなた自身やお互いのことを知ることにつながる、というわけ。

大事なのは、「世の中のルールを知ること」ではなく、「わたしが一番よいと思うルールを新しく考え出すこと」

そして、その「わたしの考える一番」を、みんなで好き勝手に、言い合うことが楽しい。
ついでにいえば、押し付けるでもなく、分かり合うため、ということでもなく。
ただひたすら、自分の主観を育て、大事にしながら、自分自身を知るために。
「私の主観」の正体をとことん突き詰めていくと、「主観」がすっと溶けて消えていく。
そこまで自分自身の中身を大事にしていく。

「それがなんのやくにたつんだ!そんなのはグローバルなルールから外れている!共通言語にならんだろうが!」

という人も最初はいるだろうが、意味がわかってくれば、いなくなる。

だって、そもそもめざすものが違うんだから。

蝶の正しい名前と、その蝶の分布、生活領域、雌雄の区別を知りたいという人もいるけど、
(で、それはとても大事なことだけど)
蝶に焦点を当てようとしてない、どちらかというと、その蝶を見ようとする自分自身、人間を知りたいの。

だから、

「きみだったら、この蝶に、なんてネーミングする?」

ということなのだ。

白くて点々がついているから、「白ごまふりかけ蝶」と命名する、ということでいいの。

「それはゴイシシジミでしょ!いい加減な名前をつけるんじゃない!」


と叱る人は、そもそも目的がちがうことを理解してください。

ゴイシシジミの生態に興味があるのではなく、その蝶に、「白ごまふりかけ蝶」とネーミングした、そのネーミングセンスや命名の理由、その蝶に対するコメントを、3分間しゃべりつづけられる、その子自身、についての理解が目的なのです。

今の世の中の仕組みを成り立たす人になるために何を学ぶか

  ↓

私がいちばん暮らしやすい世の中の仕組みはどうなのか、を思考・創造する

IQ170・13歳のジェイコブ・バーネット氏だったら、当然、後者を思考・創造することが大事だ、って言うと思うよ。

(写真は碁石しじみ)
碁石しじみ