叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

【昔話】三年寝太郎の「素」の力とは

.
「素」である、ということを考えると、私がすぐに思い浮かぶのは、「三年寝太郎」の物語である。

彼は、通りにねそべって、ただひたすら、茫洋として過ごす。

心配のあまり、通りかかる村人が、彼の身体の上に、むしろをかけてくれる。雨よけだ。

彼は竹を4本つきさし、そのむしろを屋根のように広げて、その下で、寝転んで生きる。



彼の心は、ちゃんと、生きている。
それも、彼の、「素」のままに、生きている。
彼は、彼のやるべきことを、なそうとするのだ。

寝太郎は、三年の眠りの後、立ち上がる。
そして、用水路を引く仕事に着手する。

最初、子どもたちが彼の仕事を手伝い始めた。
どうして大人ではなく、子どもが最初に手伝い始めたのだろうか。

大人は、寝太郎を馬鹿にした。

そんなこと、できない。
実現不可能だ。
採算が合わない。
やるだけムダだ。
まともな経営感覚なら、やらないよ。


後に子どもたちの働きを見て、大人たちも仕事に加わる。
子どもに教わったのだ。


しかし、寝太郎や子どもに教わって、そこに突き動かされていく大人たちの心もまた、実はまだ、生きていたのだろう。本当に「素」を見失っていれば、目の前に何が現れたって、それがいったい何なのか、見えてもこないし、響いてもこないだろうから。

どの大人もみな、寝太郎や子どもの声に響くことのできる「素」を、自分の中に生かしておいたからこそ、輪に加わり、巨大な用水路づくりを実行したのだ。


寝太郎、びっくりしたろうね。
みんながやりだしたから。

縄文時代21-4