叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

「科学」と「共感力」の間

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梅棹 忠夫(うめさお ただお)という方がいる。

wikipedia によれば、

「日本における文化人類学のパイオニアであり、梅棹文明学とも称されるユニークな文明論を展開し、多方面に多くの影響を与えている人物。京大では今西錦司門下の一人。生態学が出発点であったが、動物社会学を経て民族学文化人類学)、比較文明論に研究の中心を移す。」


とのこと。

私は学生の頃、この方の著書を読むと、「イスラム教はとても人間向き」というようなことを書いていたので、たいへん驚いたことがある。


この梅棹さんのテレビ番組の録画を、この土日、ゆるゆると見ておりました。
NHKのテレビ番組、ETV特集「文明学者 梅棹忠夫がみた未来~」 です。
見た感想。
ひさしぶりに頭の芯が活動した番組だったなあ。

梅棹は、科学は人間の業だ、という。
科学が人間を破滅に追い込むことは自明だが、(今回の原発が象徴的)それは業、というわけ。


となると、じゃあ人間は自分でも抱えきれない、把握しきれない科学の影響から破滅してしまうってことか。
梅棹、そうでない、と。
暗黒の中に、光明がある。

それは、「共感」だ。(これは私メの感想に過ぎませんが)
梅棹先生は、「英知」と言っていました。

人間が暴走するかしないか、紙一重。
そこに、人間ならではの共感する力が発揮できれば、暴走を一歩前で食い止めることができる。

たしかに、原子力発電所も、いわゆる利権があり、運動があり、経済の影響があり、それでお給料をもらって暮らす人もいれば、反対運動もあって、非難もされる。

推進派と反対派の、両方がいるわけ。両方の立場がある。
そこには、「話し合い」はない。
マネーの力でごり押しし、我慾、我利を押しつけ合う姿や、それに抵抗しようとする姿はあるが、話し合いになっていかない。

まー、梅棹先生の言う、「英知」はそこにはなさそだね。
もちろん、「共感」とはほど遠いネ。


梅棹先生は、原子力発電についての広報誌の中で、
原発はきちんとコントロールするから大丈夫」という電力会社の人に向かって、

民族学をやってる立場からいうと、人間ってのは、案外とあてにならんのです。まともでないことをしでかすのが人間。原発は高度なコントロール下におけば大丈夫という。そうかもしらんが、そのコントロールをなんでかしらんが、間違ってしまうのも人間

というようなことを言っておられたそうだ。


その人間が、業ともいわれる科学の究明をしつつ、一方の手にしっかりとにぎりしめておかないといけないのが、「共感」の能力である。相手を認識する。相手の気持ちに共感する。
それは、つねに、「あなた」を感じること。


自分でなく、相手に共感。
家族に共感。
通りの向こうの人に共感。
海の向こうの人にも共感する。

原発の会社の人にも共感。
原発反対の人にも共感。
原発の利権で動いている人にも共感。

しかし、それじゃあ、どっちの立場に共感したらいいの?
そんなん、どっちも、なんて無理よ。


どちらにも添い遂げられぬ苦しみ。
三角関係も同じ。


そこで思うのは、「迷うならどちらもやめる」ということ。
迷うのは、そのことに相対する力がこちらにない、ということ。
三角関係なら、その課題とは縁を切る。
原発の推進、反対なら、ともかくもまず、原発をやめる方向で・・・。
ところが・・・。

ところが! 原発をあきらめきれないのと同じで、人間は科学をあきらめきれない。
それが、業だ、ということ。
(麻薬みたいなものだね。やめられないのだもの。やめられないのが麻薬だから)


しかし、その業と向き合うときに、だれかが、社会が、共感してくれたら、救われる。
人間は、業を抱えるけれども、その業が、人の共感で、解消する(やめられる)ことがある。

多くの人の共感が必要な場合もあるかもしれないが、たった一人の、愛する人の共感があればいい、ということもある。



やりたかった
ほしかった
ヤリタイ。
ホシイ。


人間が、科学と添い遂げられぬ悲しみ。

その気持ちに共感さえしてもらえば。

行動は不要、ということだってある。



(実際のアクションは無関係。どうなろうが、どうしようが。そういうこととは無関係に、行動とは結びつけないで、共感することが必要、ということか)

共感、を、祈り、とよぶ人もいる。

NHKのこの番組の後に、なんでも博士の荒俣宏さんが、東京の街の節電風景を見ながら、「人々の祈り」のようなものを感じ取っていたが、そういうことかも。
あの荒俣宏さんの、訥々としたナレーションというか、進行はぴったりだったなあ。
いい仕事している。


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