叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

子どもの機嫌が悪いときにどうしますか?

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機嫌がよい、とか、機嫌がわるい、とか。

このことが、人類の、最大級の問題だろうと思う。

人類がすべて、機嫌がよくなれば、どうなるんだろう、とよく想像する。

幼い子どもは、機嫌がよいことが多い。
少なくともふつうで、悪くはない。

朝起きて、そのままで、ふつう、ノーマル、平常です。
これが本来の人間。


ところが、子どもも、成長するにつれて、機嫌がよく変わるようになる。
「機嫌」が、人間関係を操作できる、ということを学習するのでしょう。

だから、ふてくされてみたり、逆ギレしてみたり、可能な限り、周囲の人間の気持ちを操作できないかと試してみる子も出てくる。

そういう子に、

「きみの機嫌については、とくになにも、考慮しないよ」

というメッセージをおくると、あれ?という顔をして、釈然としない風。

教師は、機嫌が悪くなる子の、機嫌をとったりなんか、しないし・・・。

自分の機嫌を良く見せたり、悪く見せたりすることで、友達に

「何かを感じ取ったり、思わせたりしたい」

という行動については、極力、そのことの意味は無いのだ、ということを知らせるようにしている。

その代り、きちんと言葉で伝える方が、弊害が少なくて済むよ、って。





でも、考えてみると、

大人が、「機嫌」というものを、重大視しているんだよね。

大人が、「他の人の機嫌」というものを、とくに大きく、取り上げる傾向が強い。

というのは、この社会が、「他の人の機嫌・顔色」を過剰に強く感じ取って、反応しようとする社会だからか・・・。




「機嫌」について話していると、こういうことを言う人もいる。

「いやいや、人生というのは、あがったり、さがったり、ジェットコースターのように気分がころころかわる、機嫌がよくなったり悪くなったりすることこそが、人生の妙味なのじゃない?」


・・・とか・・・。

あなたは、どう思いますか?



機嫌が悪くなる、ということが起因となっての「人生の損」というのは、これはもう、はかりしれないと思う。

たった一人きりじゃない、人類全体が、「機嫌の悪さ」を迂回するために、相当なエネルギーを消費する。

他の人の顔色をうかがうとか、幅る人、声のデカイ人、威勢の良い人、押しの強い人、声高の人、主張する人、たちの顔色をうかがうことが、世の中、いかに多いことか。

押しの強い人に、気を遣う人間関係がふつうなのだ、となっている。

幼い子どもたちのように、基本的に、機嫌は悪くないし、良くもない、ということの、大いなる意味や意義を、考えたくもなるよね。


ともあれ、教室では、機嫌の悪い子に、

「どうしたの?」

と訊くけど、それでなにか特別なことが起こるわけではない。

クラスの子も、なんとなく、しずかに見ているだけ。



ひとの機嫌の良さ悪さに、いちいち反応しない、という態度が、お互いの中身をいろんなふうに、変化させると思う。

これ、いろんなことがつまらない、と思う人には、通じない話。

オオルリシジミ3