叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

通知表は子どもが自分で書くべき

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休日に学校へ行くと、たくさんの車が置いてある。
ほとんど先生たちの車だ。
学校に、通知表を書きに来ているのだ。

平日はほぼ、他の仕事や文科省、市教委レベルの仕事に追われていてできないので、土日にやるためだ。

先生たちは残業が多い。夜8時、9時、というのが当たり前になっている。
だから、逆に「残業」している、という意識は薄いだろうと思う。学校というのは、それが当たり前だ、という意識だから。

さて、土日に書きに来ている通知表ですが、一人ひとりについてなにをどう書くのか、これが本当にむずかしい。

なかには、

「そんなの、簡単よ。先生が思ったこと書けばいいんだもの。子どものことで、何でも思ったこと書くのよー。所見っていうのは、思うこと、というくらいの簡単な意味なんだって、辞書にのってるでしょ」

という年配の先生もいるけど、多くの先生は保護者の反応を先に考えるから、どうしても、正面切って子どものあれこれをズバリ、というふうにはなりにくい。

教頭先生は、

「一にも、二にも、褒めてください。褒めることが教育ですからね。保護者も、褒められて文句付ける方はいません。ともかく褒めてくださいね」

と先生たちを鼓舞して回っている。




さて、と。

わたしは教室に陣取る。

職員室だと、子どもたちの顔が浮かんでこないからだ。

教室の前方にすわり、日曜日でだれもいない子どもたちの机をみる。

そこに、どんな顔で、どんな表情で、どんな姿勢で座っているのか、ふだんの子どもたちの姿から想像しながら、子どもを思い浮かべて、その子に尋ねる。

「通知表、なに書いたらいい?」

すると、その子は

「うーんと、体育かな」

とか、

「委員会の活動で児童会の発表したこと書いて」

とか、適当に話してくれる。

なかにはあまり語らない子もいて、そういう子はわたしに、

「何でもいいよ。とくに(がんばったことが)ないかも」

とまで、言う。(あくまでも想像上の子です。あくまでも)

「いやあ、そんなことないでしょ。いろいろ頑張ってたでしょ」

と、私が問いかけると、

「ううん。がんばったことなんてないよ」

「ああ、そう。ないの・・・」

私はなんだか困ってしまって、どういえばいいのか、しばらく迷う。


そうかもね。
「がんばった!」なーんて言葉、ニュアンスがちょっといい加減だものね。

わたしが、がんばったことを探そう、というと、なにか組み体操のピラミッドで、下の段で歯を食いしばって耐えているようなイメージだもの。スポ根物語じゃあるまいし・・・。みんながみんな、そんなふうに、毎日過ごしているわけじゃない。

楽しんでやれたこと、学んだこと、こういう言葉も、どうなのか。
それぞれに、ニュアンスやとらえ方があるのだろう。

彼を見ていて、一番いい言葉、しっくりくる言葉がなにか、私は探し始める。

「がんばりました。楽しんでいました。達成感を味わっていました。取り組んでいました。することができました。」


・・・、こういう言葉を使いたくない、という子がいるだろうにね。

どんな言葉が、いちばんぴったり、くるんだろうなあ。

毎日、どんな心持ちで、いったい何に関心を向けて、その子が生きていたのか。

ほんとうの内面、本当のところはさっぱり分からないのに、通知表を書く、という。

子どもの言動、表面を見ていてもちっとも分からないのに、なにか書かねばならんと言う。

通知表を書いても、

「こんなの、本当のわたしのことについては、ちっとも書いていない」

って、子どもが思うだろうことは分かっているのに、さもわかったふりをして、教師は書いている。


通知表、子どもが自分で書けばいいのに、ね。




アカゾウムシ