叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

安心派 VS 不安派【平和教育】

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憲法が、変わるかもしれません。」


しかし、まだ公民分野を勉強し始めたばかりの子どもたち。

なにがなんやら、さっぱりわかりません。

感じとしては、

「へえ、大人の人たちが、そう考えているんか・・・。(そのうち憲法って、変わるんやなあ)」

って雰囲気。




6年生なので、ちょうど、憲法を習っています。

もちろん、前文から、きちんと読みました。

「これを、変えようという意見があります」

そのくらいのことは、みんな知ってる。

こちらが言わずとも、当然のように、子どもの方から話題にあがる。



しかし、その大事な国民投票がいつ行われるのか、時期がまだはっきりしない。

「先生、その国民投票って、いつなの?」

それはまだ分かりません・・・。




単純な男の子のひとりが、

「えー、そんなめったいにないなら、俺もやりたかったー」

これに賛同する声、多数。

「これまで戦後70年、憲法を変えるための国民投票は行われてこなかったから、今度の投票が初めてです。先生も初めてだし、みんなのお父さんお母さんも、おじいちゃんおばあちゃんも、みんな初めての投票になるね」

子どもたち、

それまでに18歳になりたい~!

という感じ。



さて、国語の教科書に、

「未来の社会を考える」風の単元があり、平和を考える、ということになっております。

考えに考えて、自分なりの「意見文」として、考察したことを作文用紙にまとめてみました。

子どもたちもその気になって頑張り、1冊の冊子ができあがった。


その中の、ある子の意見文が、とても印象に残った。

「平和を願っての行動は、つねに平和を作りながらでないとだめだと思います」

なるほど。

平和へ至る道は、平和を実現することの積み重ねである、ということネ。



逆に、別の子で、「不安」を前面に出した意見文もありました。

↓ これも分かるよなあ。

「ぼくが武器を持った方がよいと思うのは、そうしないと不安だからです」

おそらく、こう感じる人は、多いのだと思う。




国民投票ではきっと、安心派 VS 不安派 に分かれるのでしょうナ。


で、安心派からみると、なんで相手がそれほどに不安を感じるのか、わからない。

安心派の「安心」には、根拠がない。

根拠のないのは当然で、そもそも不安がないのだから、根拠なく安心しているわけ。




逆に、不安派からすると、彼は、なんでそこまで脳天気に安心していられるのかが、わからない。

どうして「不安」なの?と問われても、どうしてって・・・そりゃ、至極当たり前に、不安感がこみあげてくるのだから・・・。

なぜあるか、と問われても、出てくるものは出てくるのだから、仕方がない。これも、理由はよく分からないワケ。

つまり、

この<深い溝>は、実は、思考内容の差による溝(みぞ)、なのではない。

「なにを考えているか」

によるのではないのです。

したがって、溝が埋まるわけがない。

要するに、いくら議論しても、話し合っても、

頭では相手を理解することができないレベルなんだと思います。

歩み寄ろうにも、依って立つ場所、依拠する世界がちがうので、これは話し合うわけにいかない。

これが、「話し合いがうまくいかない」理由です。




お互いのことを理解するにためには、どうするか。

これは、政策やら世界観やらをいくら話し合っても、ムダ。

もっと心の内側のことで、「不安」がなんで発生するのか、見ていくことが必要なのでありましょう。




その人のなかに、

「自分はこのままではいられない」

「自分は、今のままじゃいけない」


というように思いこまされるような、嫌な体験が、たーくさんあって、

人生は、このままではダメであって、安心しては居られない。

というような思い方を、している。


つまり、『不安解消』ということが、人生のメイン課題になっている。

そういう生き方をしてきた人にとっては、

「不安を感じない人」 が、変な人に思えて仕方がない。

だから、

お前はなんで、そこまで脳天気に安心していられるのだ?

ということになるんじゃないかな。



ドラマール