叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

困ることの病理

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子どもをみるとき、子どもの機嫌をよく観察します。

毎日、なんとなく機嫌よく過ごし、まあ鼻唄をうたうレベルの子もいますし、なにか眉間にしわが寄って不機嫌な子もいます。

生きていくにはどちらが良いも悪いもなく、どっちでもいいのです。

しかし、不機嫌な子は、生き辛そうに見える。

不機嫌の中身は、

「おれは困っているのだ」

という叫びです。




朝、登校した直後に不機嫌なSくん。
雨で服がぬれ、靴下がぬれてしまって不機嫌な状態。

この子が、幸福になってほしい、と思って、そこから1年間がスタートする。

1年の間にやれることは、限りがある。

しかし、1年間にずっとその雨の朝のことが念頭にあって、その子に接する。

その子が機嫌のよい時も笑っているときも、この子の【その、雨の日の心の状態】が、いつも頭の片隅にある。


雨で、不機嫌になってしまう子の、困り感。
実は、雨だけではなく、友達だったり親だったり兄弟だったり学校の成績だったり、担任とのトラブルだったり、それらが積もり積もって、その日の【朝の雨での不機嫌】が表出されてきているわけ。
物語はおそらく、生まれた時から始まってる。

困って不機嫌になる子の、その「自分の思いを満たすことへの執着」を、どうにかしてやりたくなる。


そのSくんの隣で、

「せんせー、くつしたぬれちゃった~」

と明るい声で報告し、

「ここに干しといていーい?」

という子もいる。

自分自身でなにも困っていない子。
なぜか、事態が『困る』に至らない子。


この、困る子と困らない子の、境にあるものは、いったい何だろうか。

いつもいつも、「思い通りになるならないが無関係、の明るさ」が、気になる。

思い通りになってもならなくても、なにも困らず、平気な子。

自分の思い通りになることが重要で、そこに価値を置くがために暗くなる子。



道徳教育は、ここがいちばんのポイント、だと思う。

困ることの病理。

この解明かな。

困った