ごめんなさい、といいなさい
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「謝る」の価値は、21世紀になって格段に跳ね上がったと思う。
20世紀の終わりごろ、大企業の不正が話題になったことがあった。
雪印の不正、
銀行の不正、
なんやかんやと。
そこで、大企業の偉い人たちが軒並み頭をさげて
「まことに申し訳ありませんでした」
と言い、そこに雨のようにカメラのフラッシュ音がかぶさる映像が、これでもか、とお茶の間に流れた。
おそらく、そのときから、
「ごめんなさい」
を言うことに、日本人は価値を置き始めたのではないかと思う。
学校でも、指導の終わりは「ごめんなさい」である。
「反省させないと、本人のためにならない」
というわけで、相互にごめんなさい、を言わせる。
親に報告する時も、
「〇〇くんも△くんに対して謝罪しまして、ごめんなさい、と言いましたので・・・」
と、報告する。
母親も、その報告を受けて、納得し、
「〇〇くんも謝ったんだって」
と今度は父親に報告する。
父親も、その報告を受けて、
「そうか、〇〇くんも謝ったんだな。じゃ、仕方ない」
というふうに考える。
ところが、これは心の中の作業とは、まああまり関係があるのかないのか、どちらかというと無関係でありましょう。
指導というのは、叱ったり謝らせたりすることよりも、子どもたちが次にどこへ向かっていくのかを手助けすること。
そのためには、なにが大事なのか、を考えさせたり、ときには考えていくための方策をきちんと教えることかと思う。
やっぱり、「考える」ということに、重きを置くことかな。
しかし、そこに重きを置く大人も少ないわけで、大人自体が
「考える」
を日常でさぼっているようでありますから、まあ子どもに
「考える」
をさせようってことなど、もとより考えていないのかも。
「頭を下げて謝る大人の映像」に価値がおかれる?、のですから、何を考えたか、どう考えたかなんて、なにも価値はないのでしょう。
「何が大事か」、これを考えることは難しい、ということに、なっているように思う。
なかには、「謝ることが大事」とし、そこからは思考停止デス、という教師も。
自戒しつつ、ネ。
「謝る」の価値は、21世紀になって格段に跳ね上がったと思う。
20世紀の終わりごろ、大企業の不正が話題になったことがあった。
雪印の不正、
銀行の不正、
なんやかんやと。
そこで、大企業の偉い人たちが軒並み頭をさげて
「まことに申し訳ありませんでした」
と言い、そこに雨のようにカメラのフラッシュ音がかぶさる映像が、これでもか、とお茶の間に流れた。
おそらく、そのときから、
「ごめんなさい」
を言うことに、日本人は価値を置き始めたのではないかと思う。
学校でも、指導の終わりは「ごめんなさい」である。
「反省させないと、本人のためにならない」
というわけで、相互にごめんなさい、を言わせる。
親に報告する時も、
「〇〇くんも△くんに対して謝罪しまして、ごめんなさい、と言いましたので・・・」
と、報告する。
母親も、その報告を受けて、納得し、
「〇〇くんも謝ったんだって」
と今度は父親に報告する。
父親も、その報告を受けて、
「そうか、〇〇くんも謝ったんだな。じゃ、仕方ない」
というふうに考える。
ところが、これは心の中の作業とは、まああまり関係があるのかないのか、どちらかというと無関係でありましょう。
指導というのは、叱ったり謝らせたりすることよりも、子どもたちが次にどこへ向かっていくのかを手助けすること。
そのためには、なにが大事なのか、を考えさせたり、ときには考えていくための方策をきちんと教えることかと思う。
やっぱり、「考える」ということに、重きを置くことかな。
しかし、そこに重きを置く大人も少ないわけで、大人自体が
「考える」
を日常でさぼっているようでありますから、まあ子どもに
「考える」
をさせようってことなど、もとより考えていないのかも。
「頭を下げて謝る大人の映像」に価値がおかれる?、のですから、何を考えたか、どう考えたかなんて、なにも価値はないのでしょう。
「何が大事か」、これを考えることは難しい、ということに、なっているように思う。
なかには、「謝ることが大事」とし、そこからは思考停止デス、という教師も。
自戒しつつ、ネ。