叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

卒業前に、親に感謝・・・

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学習発表会でなにやる?と子どもたち。

もうすぐ最後の参観日なので、ああだこうだ、とアイデアを出し合っている。

で、親に感謝して何かする、というのが、わりとよくある「学習発表会」プログラムのうちの一つであります。

親は泣きたいのです。そのために、子どもたちも、わりと神妙になって作文など読み、

「おかあさん、ありがとう。インフルエンザでわたしが倒れた時・・・」

というようなくだりにくると、お母さんもこの6年間の子どもの成長に今さらながら思いが至り、なんだかんだと苦労したことや、かわいい1年生の手をひいて、この学校の正門をくぐったことなどが思い起こされると、もう涙腺が爆発的にゆるむのであります。


しかし、このセレモニーをやろう、と半分以上思っていたんだけど、どうしてもこの今の雰囲気じゃ、無理だろう、と思う。

毎日、何でもかんでも爆笑してるクラスに、涙腺が緩む気配はまったく感じられない。

ありがとう、という気持ちなども当り前にあるんだろうが、それを表現したときにも、この今のクラスでは、涙よりも笑顔しかないような気がする。

で、ありがとう、というセレモニーは、プログラムから消えてしまった。

まあ、あまり深く考えず、このクラスのあり様をそのまま見てもらって、(めったに保護者が学校に来ることなんてないのだし)、いっしょになって楽しい時間をすごせばよいのだろう、ということになった。

大体、いったい学校でなにを学んできたかというと、これは一言では言い表しようがない。
また、形にあらわれるものなど、ほんの一部であり、一人ひとりの子どもの内情に培われたり備わったり育ったりしたものを、

「見せる」

ということも、相当に困難なことなのだろうと思う。

これは、見る側にとって大変なことで、見る側にその視点がなければ、いっさい感知できないもの。

わたしとしても、いったいこのクラスの子どもたちになにが育ってきたかなんて、やっぱりさっぱり分からないし、言葉に変えることもできない。

この1年は毎日のように、この空間で、お互いの顔を見合わせて、あれこれとしゃべったりすごしたり、共に飯を食ってきた、という程度のことなのではないか、と思う。

と考えると、いったい親の期待する発表なんて、できるのか、という次元にまで行きつく。

見ようとする人が、その場の子どもをみて、なにか感じとりたいものを感じ取るのみ。

なにを感知するか。その人次第。
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