叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

喝をいれにゃ、ならん!という思い込み

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座禅を組んでいるところへ坊主が現れて、長い棒で

ビシッ

と肩を叩く。

すると、肩を叩かれた修行者はお辞儀をし、居住まいを直し、また座禅に集中する。



あの棒は、集中力が途切れたとき、そのことを親切に教えてあげるための棒らしい。

名前を、「警策(けいさく)」という。



おそらく、日本人の、相手を「ビシッと叱る」というイメージは、ここからきているのではないだろうか。

ちなみに、禅堂内で警策文殊菩薩の手の代わりであると考えられている。

つまり、警策で打つという行為は、坐禅修行が円滑に進むようにという「文殊菩薩による励まし」という意味を持つ。

それゆえに、打つ側、打たれる側の双方が、警策を「与える」・「いただく」前後に合掌低頭し、お互いに感謝の意を表すことになっている。



打つ側は、一生懸命に座禅に取り組むものをコントロールしようとし、

場合によっては、「いい姿勢」であることを伝えるために、励ましの意味で打つ場合もあるらしい。

また、「自尊心をめちゃくちゃにすることもできる棒である」ということを自覚する者にしか、

打つ側に立つことはできない、という。

つまり、コントロールする、というのも、相当な覚悟がないと、できない仕事なのであろう。

逆に言えば、コントロールする、という世界に居る以上、間違いを犯す危険を常に自覚しなければならないのだ。




では、コントロールをあきらめると、どうなるのだろうか。

「秩序が無くなり、コミュニティが無茶苦茶になっちゃうのじゃないのか?」

その不安が恐ろしくて、みんな、お互いのコントロール、操作しあう間柄をやめようとしないのかも。



朝の時間に、まんたんタイムを取り入れている。

この「まんたんタイム」は、教師による子どものコントロールなのだろうか。



しかし、考えてみれば、人生の一番大事な仕事が、自分を満たすことのような気もする。

だとすると、

相手がいようがいまいが、

相手が指示しようがしまいが、

周囲の人にもほとんどまず無関係に、

コントロールするしないの世界、とは一切関係なく、

自分が心から望んでするのが、「満タンタイム」であるようで、

「満タン」と「コントロール」って、まじわらないのでは?



という気がして仕方がない。

座禅