叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

なぜ戦争をするのか その3


いやあ、なんだか夏休みボケもあるのか、筆が思わぬ方向へ進み始めて・・・


わたしの特異な体験を書いているが、はたして読もうとする人があるのか・・・。

教員採用試験の2次試験を目前にして、対策を考えている人たちにはまったく関係のないことを書いている。申し訳ない。

でも、ちょっと筆がのってきちゃったから、書きます。



ニーチェがすごいな、と思うのは、ルサンチマンを最初にもってきたこと。
これは、分かりやすい。
嫉妬の感情はだれしも覚えがあるはずで、またそのいやらしさを感じてもいる。
うらやましい、ねたみ、嫉妬、だれでもある。
わかりやすい。実感しやすい。しらべやすい。

だけど、「ツァラトゥストラはかく語りき」の中でも、それは克服すべき課題となっていて、そもそもなぜ嫉妬する感情が出てくるか、嫉妬とはどういう感情か、ということを、おのれの心にてらして調べているわけではない。



わたしがしていたのは、

ただ、自分の感情をしずかに見て、ゆっくりとプロセスを感じ取りながら、感情をまきもどしたり、スローで再生したり、ということを何度もやりながら、

「なんで腹が立つのか」

と考える。

すると、あるとき、「腹が立つのはよくないこと」という常識のような、道徳観念のようなものから離れて、

あれ?
なんで、腹が立っていくのかな・・・


というように、非常にスローなテンポで、自分の怒りの感情をみることができた。

そこでぶっちゃけると、

本当はその人ともいっしょに幸福になっていきたいのに・・・

という思いが、やはりある。

憎んで憎んで、相当に憎んでいるはずの相手に対しても、申し訳ないが、こういう感情が自分にあることが分かった。

これを認めると、敗北感がかぶさってくるような気がして、これも認めたくないことであったが、やはり自分の中に、

「ともに仲良く幸せになりたい」

というような感情がある。
認めてしまうと、いや、ちがう。逆に、「なんであいつなんかに!」と、まるきり反対の感情もある。だから、これを否定してかかる。
でも、どうやら、そういうお人よしの感情もある・・・。抵抗しても抵抗しても、やはりあることを認めないわけにいかない。これを認めるのに、相当な時間がかかる。

まるで、お人よしの、ただのバカみたいに自分が思える。
だから、これを認めるのに5年くらいかかる。

抜きがたい、お人よしの感情があるのを認めざるを得なくなり、やがて、それがあるのになぜ、また腹が立つのか、と堂々巡りのような自問を繰り返すプロセス。

いやあ、これがまた、エネルギーの要ることなんですわ。
あれは20代だから元気があったのかなと思います。


いっしょに考えている仲間の中には、こういう感情を認めたことがうれしくて高揚し、

「わたしはもう、人を愛せる!」

とばかりにうれし泣きをする大人の人もいたが、わたしは「まだ先があるじゃんか。そもそもの問いに答えてないじゃないか」と思って、白けた気分でそういう人たちを見ていた。

まあ、20代の若造だったので、大の大人の人たちがうれしそうに高揚しているのに水をさすつもりはなく、ほほえんでみていたが、心の中では、

「こんなのは一時的な高揚感だな。麻薬みたいなものだ。すぐに現実の世界の出来事に引き戻されて、あっと言う間だろう」

と冷めていた。


さて、8年目のあるとき。

(つづく)