叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

結局は「ともだち」との人間関係で苦しんでいる


クラスの子どもたちを見ていると、つまるところ、学校にくるのは「人間関係」を学ぶためなのだ、と思うようになった。

授業も大事。それはそう。
国語も算数も、理科も社会も、総合的な学習の時間も、すべて大事なことには変わりない。

でも、いちばん子どもたちの心の中に、切実であり、学びたがっていて、どうするのがいいのか、悶々としながら居るのは、「人間関係」。

大人もそうだけど、子どもたちも同じ。
この人間関係、というものをどうにかスッキリしたい、とねがって、毎日生きている。
このことが落ち着くだけで、頭の中で整理できるだけで、もう学校生活が根底からくつがえって、一気に明るく変貌する、というくらいに、大きなこと。

しかし、保護者の意識はそうではない。
1番が勉強で、人間関係はその次、と思っている。
この順序意識の差が、けっこうクセモノですよ。

保護者の意識は、1位と2位の差はそれほどない、と思っている。
「勉強も友達も、どちらも大切です」
という方が多いから分かる。

しかし、子どもの意識の差は、これとは異なる。
つまり、第一位の「人間関係」というのが、これはどうにもゆるがない一位であり、他のことをすべてつきはなして、圧倒的に一位なのであります。
国語や算数や理科や社会、図工などというのは、ずいぶんな差をつけたうえでの、第2位なのであります。



ここで笑ってしまうのが、文科省ですが、「今の子はコミュニケーション能力がないので、思いを伝えあうコミュニケーション強化のための授業をしましょう」とキャンペーンをしています。国語の教科書も見事にそれと呼応して、やれ自分の好きなモノをお互いに発表しあいましょうだとか、遠足の思い出をみんなで共有しましょう、だとか。
こんな授業、いくらやっても・・・と思います。

それより肝心なのは、人間関係の中での微妙なコミュニケーションの力なのです。
けんかをうまくおさめるの、先生にすべておまかせ、というよりも、自分たちでなんとなしにおさめていくだけの力が、本当はあるはず、と思うのです。
国語の教科書で強化するプレゼンテーションの力なんかとは、まったく別の力がつかないといけない。

けんかをした、すべてノーサイド、あとくされのないようにおさめていく。
それをどうするか、低学年は先生がみせます。見本を。
悪かったところはお互いにある。お互いにやりすぎたのだ。それを素直に認めあって、周囲のみんなにもわかってもらって、さらにはお互いに人間だもの、弱い所やプライドもある、それをお互いに大事にせんと・・・という余韻を味わいながら、おさめてしまう。

そのうちに、少々の喧嘩くらいなら、遊んでいるうちに解消するものだ、と分かってくるし、お互いさまだな、ということも実感できてくる。
高学年ともなれば、上手に言い合って、上手に収束させます。
ひっこみがつかないときには、いいタイミングで女子のかしこいのが出てきて、
「もうやめなよ、○○くんだってこう言ったんだからね」
なーんて、はきはきと言ってくれる。それでまるくおさまる。それを実は、クラスの全員が(当人ばかりでなく)願っていて、おさまっていく。

・・・というのが、私の子ども時代の経験です。

しかし、今の子は、すべて先生の「シキリ」を必要とする。
そうでないと、つきとばしたり、つばをかけたり、ものをかくしたり、ということがずーーーーーーっと続いてしまう。

「ひっこむ」

というのが、できないのです。お互いに。


本当は、こういうこと、学校の授業時間をつかって、みんなで学んでいくくらいでちょうどいい、と思うのですが、それは許されていません。