○○しろよ。じゃないと、なぐるぞ。
「俺の言うことを聞け。さもなければ、これだぞ」
(と、なぐる真似をする)
こういうことは、したり言ったりしてはいけない。
それを分からせるために、教師は何をするか。
「ばかもん!!そんな脅すような真似をしてはいかん!!」
と怒鳴りつける。
これは最低の「叱り方」です。
なにも響かないまま、収穫ゼロで、恨みだけが残り、将来に禍根を残します。
大人にとっても、子どもにとっても、なにも得られない、という点で、あまり賢いやり方とは言えないでしょう。
発達障害のある子には、これは当然重大な影響が出ます。「わけのわからんことで叱られた。オレのことを憎んでいる」という妄想を抱かせてしまいます。2次障害につながっていくステップを踏んでしまうことになり、二重の意味で非常によろしくない。
子どもは、「たかがこんな程度のことで」と思っているに決まっています。
多くの子は、
「え?そんなばかな。なにがいけないんだ?みんなやってるだろ」
と思っています。
そこで、こう言いましょう。
今のは立派な犯罪です。
そういうことを言うと、脅迫罪という罪になります。
2年以下の懲役、または50万円以下の罰金です。
「きみたちはまだ小学生で、学級とか学校という、小さなコミュニティでもって、社会に出るための準備をしている段階だ。だから、2年も牢屋に入れられる、ということはない。しかし、大人になったら事情はちがう。立派な犯罪を犯したことになる。」
まずはこんな程度のジャブで、叱られていることを明確に伝えます。
イエローカードじゃなく、レッドカードだ、ということを分からせるため。
しかし、それを聞いても、きょとん、です。
先生、何を言いはじめたんだ?
わけわからんわ、という表情です。
いったい、このセリフのどこに、問題があるのか??
ふつうの会話じゃん、ということなのです。
「お前、あっちのチーム行けよ。じゃないと、これだぞ」(と、殴る真似をする)
こんなの、これまでも100回くらい言ってきたし、兄弟間では日常会話だし、うちのかあちゃんも言ってるし、本当に標準的で、日常にもっともよくあるタイプの、一番よく聞いている類の会話だ、という感覚でしょうか。
「宿題終わったんか?宿題やらんと、尻たたきやで」
と、母ちゃんが日常的に言いますので、それをちょっとぼくなりにアレンジしただけで・・・、ということらしい。
ところが、こういうセリフに、非常に苦痛を感じる子だって、クラスにはいるのです。
だから、クラスの中に線引きをしておかなければならない。人の生命や身体に危害を加えることを宣告したうえで、自分の要求を相手に呑ませようとする行為は、この学級ではゆるしません、ということを明確に、クラスのルールにしていかなければならない。
で、ルール化して、それがまずとりあえずのことであって、本格的に切り込んでいくのはそこから。
ルールをつくってみせても、「言うこと聞かんとなぐるぞ」と簡単に言ってしまっている子は、なにも変わっていません。
その子が変わっていくところをサポートするのが、教師(というか大人全般)であります。
だとするならば、
叱って終わり
というのが、まったく何もやらないよりもはるかにたちの悪い所作であることが明白です。
その後のサポートを何もしないのであれば、下手に叱らない方がマシ、と言いたい。
2次障害にするなよ、と。
ところが、保護者懇談会でも話していて、ああ、と思うのは、
そういうのは、大人が本気でビシッと叱ればいいんですよねえ、先生!大人の本気さと迫力で分からせないと!!
という人が多いことかなあ・・・。
<大人の迫力>かあ・・・。それもいいけど、それで何が解決するかと言うと、何も解決していないのです。
大人は言いたいことを言った分、前に進んでいるような気がするだけで・・・。
子どもの気持ちは、「なにか圧迫された」、というだけで・・・。
子どもはやはり立場が弱いですからね。
必要なのは、子どもが育つことなのですが、大人が叱る、ということ自体が目的化している。
そうではないだろう、と。
○自分の中の願いややってほしい、ということを伝えるのに、純粋にそのまま言葉に出して頼む、希望を言う、ということ自体がゆるされてこなかった、あるいは幾度も幾度も裏切られてきた、もしくは茶化されたり、本気に受け取ってもらえなかったり・・・という暗い過去。
○ただ甘える、ということができず、ともかく相手が自分の希望を受け入れてくれている、という<形や状態、結果>をのぞむ、性急さ、焦り、余裕のなさ。
○もしかなえられなかったら、いてもたってもいられず、我慢もできず、どうしていいか分からなくなる、という不安。
こういうことを考えると、
「○○しないと、なぐるぞ」
という子の、切なさ、さびしさ、悲しさ、涙が出ます。
で、こういうことをクラスで言うと、意外や意外、3年生でもそのことが分かるらしい。
「自分が困るのがいやだから、なんとかしたいとあせってる」
「そうそう。やってもらえないと、困るのが自分だから」
というようなことを、スッと解説したりする子が出る。
我慢が出来ない、ということ。
いてもたってもいられなくなる、ということ。
追い詰められている、ということ。
かなえられなければ、泣きそうになる、ということ。
「お前、あっちのチーム行けよ。じゃないと、これだぞ」って、Sくんが言ったんだよね。
そして、殴る真似?をしたってことだけど・・・。」
「あのね、最初Mくんに言って、いやだって断られたら、そしたらすっごい大声出して、叫び始めたんだよ」
「・・・」
「Hくんと同じチームがいいから、今度はわざとSくんに動けって命令した」
「・・・へえ」
「Hくんと同じじゃないとだめだから」
「むりやり、Sくんに変わらせようとした」
「・・・そうかあ」
「じゃ、もし、Sくんが嫌だっていったら、どうなるんだろう?」
「・・・」
「泣いちゃうんじゃない」とA子。
みんな、「・・・」。
「赤ちゃんみたい」
という子もいた。
クラスでの話し合いが、このレベルにまで達しているのにも関わらず、当人だけが、なんで自分のことをみんなが、
「赤ちゃんみたい」
なんて言っているのか、ちっとも分からず、きょとんとしている。
そして、なぜ自分がこんなに不安な気持ちにさせられているのか、分からず、おびえている。
「先生が心配しているのは、Sくん。一番すくってあげたいのは、なぐるぞ、といったSくんの方なんだよね。みんなにふつうに、ぼくこうしたいんだけど、どう?って、言えるようになってほしいんだけど」
とわたしが言うと、クラス全体に、
「そうだね」
という空気が流れる。
「なんでそうやってふつうに、みんなにお願いするってことができないのかなあ」
「お願いしてもそうならなかったら、我慢が出来ないから」
「そうか、ガマンができないのか・・・」
「・・・そうかあ・・・。ドッジボールが楽しめなくて、一番困っているのは、Sくんなのかもしれないね。」
最後、わたしが、ゆっくり、しっとりと語ると、教室が、シーンとする。
Sくんは、もうその頃には、突っ伏して泣いている。
「Sくん、だいじょぶかなあ。心配だね」
「これからがんばって、階段登って行ければいい」
S君のすぐ隣に座っていた、まあまあS君とは仲の良い友達の、Eくんが言った。
階段というのは、つねに私がさまざまな機会に、
「かいだんのぼって、成長していこう」
という意味で、階段の比喩をよく使うからだろう。
憐憫の情で包まれ、再度コミュニティにむかえられる、という形にもっていくのが、「やんちゃくん」にする一番いい対応だろうと、今のところは思っている。
「ぼくは成長したいと思っています。がんばって成長したい。だからまた、このクラスで、みんなといっしょにやらせてほしいです」
号泣しながら、5分くらいかけて、それだけを言う。
もう泣きながらだから、しゃくりあげて、過呼吸になりながら、それを言う。
わたしが怒鳴ったり、声を荒げる場面は、ただの一秒もない。
そもそも、その必要がないのだ。
「このクラスのみんなは、Sくんを本当にやさしく見てくれています。そのことが本当にうれしい。感謝しています。きっと、もうSくんは、ひとを脅すことはしないと思うよ。ありがとう」
そうして、何事もなかったかのように、算数が始まります。