子どもは、子どものプロ
2学期が始まるというのに、まったく緊張感がない。
これは、とくに何も、構える必要が無いからで、子どもに会ってみると、スッとなじんで、夏休みのブランクなど、何もなかったかのよう。
学童保育の先生に、2学期もよろしくお願いします、というので、あいさつに行った。
すると、さっそくうちのクラスの子どもたちが居て、
「あ、先生だ、先生だ」
とみんなで出てきて、あれこれ話し出す。
こっちは、へえ、へえ、というだけ。
特に面白い話もしないし、話しかけもしないし、話題をふることもなく、何もしない。
ただ、
「あ、○○さんだ。おはよう~」
と言うだけで。
あとは、低い声で、
「ほほほ」
と、言う。
この、
というのが、一種の合言葉のようになっている。
何も話すことないんだけど、あなたの顔を見てます。という状態の時に、わたしの口から、勝手に出てくる言葉であって、子どもたちも、なんとなくそれを承知している。
ほかには、
というのもある。
これも、とくに話すことないんだけど、顔を見てます、というときに、私の口から、勝手に出てくる。
すると、子どもはリラックスして、
「ねえ~・・・・・○△×◇・・・」
と、何か、話しかけてきたり、わたしの腕を触ってきたり、肩をもんできたり、する。
私は、評価が苦手だ。
学習の達成度についての評価は簡単だからやるけど、この子はこんな子じゃないか、というようなことは、一切、考えない。
その子の特徴や癖、人となり、その子の実態について、詮索するようなことは、あまり、しないし、できない。
その代り、いつも、
と思っている。
思っているだけで、深読みはしない。
深読みすると、人間はあさはかだから、すぐに、「分かった」という気になっちゃうから。
たかだか1年程度の付き合い、それも学校と言う装置の中での付き合いしかないのに、その子がどんな子かなんて、わかってたまるか。
だから、
「ほほほ」
程度の付き合いなのだ。
そして、勝手に彼らが話しかけてくるのを、ただ、聞いているのである。
子どもは、もうすでに、完成している。
子どもとして、プロフェッショナルの域に、達している。
そのプロに、いろいろと、「子どもとは何ぞや」を、教えてもらっている感じ。
わたしが、とくに、なにもすることは、無いんです。
これは、とくに何も、構える必要が無いからで、子どもに会ってみると、スッとなじんで、夏休みのブランクなど、何もなかったかのよう。
学童保育の先生に、2学期もよろしくお願いします、というので、あいさつに行った。
すると、さっそくうちのクラスの子どもたちが居て、
「あ、先生だ、先生だ」
とみんなで出てきて、あれこれ話し出す。
こっちは、へえ、へえ、というだけ。
特に面白い話もしないし、話しかけもしないし、話題をふることもなく、何もしない。
ただ、
「あ、○○さんだ。おはよう~」
と言うだけで。
あとは、低い声で、
「ほほほ」
と、言う。
この、
「ほほほ」
というのが、一種の合言葉のようになっている。
何も話すことないんだけど、あなたの顔を見てます。という状態の時に、わたしの口から、勝手に出てくる言葉であって、子どもたちも、なんとなくそれを承知している。
ほかには、
「あじゃじゃ」
というのもある。
これも、とくに話すことないんだけど、顔を見てます、というときに、私の口から、勝手に出てくる。
すると、子どもはリラックスして、
「ねえ~・・・・・○△×◇・・・」
と、何か、話しかけてきたり、わたしの腕を触ってきたり、肩をもんできたり、する。
私は、評価が苦手だ。
学習の達成度についての評価は簡単だからやるけど、この子はこんな子じゃないか、というようなことは、一切、考えない。
その子の特徴や癖、人となり、その子の実態について、詮索するようなことは、あまり、しないし、できない。
その代り、いつも、
「この子、どんな子なんだろうなあ」
と思っている。
思っているだけで、深読みはしない。
深読みすると、人間はあさはかだから、すぐに、「分かった」という気になっちゃうから。
たかだか1年程度の付き合い、それも学校と言う装置の中での付き合いしかないのに、その子がどんな子かなんて、わかってたまるか。
だから、
「ほほほ」
程度の付き合いなのだ。
そして、勝手に彼らが話しかけてくるのを、ただ、聞いているのである。
子どもは、もうすでに、完成している。
子どもとして、プロフェッショナルの域に、達している。
そのプロに、いろいろと、「子どもとは何ぞや」を、教えてもらっている感じ。
わたしが、とくに、なにもすることは、無いんです。