叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

口答えのない教室

口ごたえのない教室、というのでいけば、そんなのは世の中にたくさんある。
ただ、なぜ、そのような状態になっているのか、違いがあるだけで。

強圧的で、教師の機嫌が憲法のようになっている教室では、当然、口ごたえは起きない。
ヒトラーの前では、だれも口ごたえをしないようなもの。

そうではなく、自発的に、だれも、口ごたえをしない、という状態。

だれもが自由に自分の思いを口に出して、それが

口答え

にならない、


というもの。


そんなの無理、と、即座に反応する人、

どうせ、子どもなんて、そんなものだよ、という人、多いだろう。

世の中なんて、しょせん、だれかのご機嫌伺って生きるのだし、大人だってそうなのだから、腹の中と口先の言葉なんて別もの、子どもなんてむしろ、腹の中ではちぇっ、先公め、と思っていたって、口答えを表立ってやらないようになれば、それでいいんだ、という人、多いと思う。

あるいは、反抗期を解説する文を読んで、

「反抗期はあって当然、自分の意志を表現して自己を確立しようとしている過程の正しい姿」

というふうに、解釈して納得する人ばかりだろう。


そういう人が、

◎反抗期は、ないで当たり前

◎口答えは、ないで当たり前


なんて言われたら、即座に、

「あんた、あたまがおかしいのか」

と、反応すると思う。


いやいや、私のクラスは口答えもなく、自由に思うが儘に話して反応して、それでも口答えなんかでないし、それで困る人もいないよ、という先生、どなたか、そういったクラスの実践例をブログで紹介していないだろうか。そんなブログを読んだら、勇気百倍、という先生も世の中にはたくさん、おられるはず。
私自身は、ぜひ、そういった先生たちと、交流していきたい。
教師はもっと、自校や近隣の学校のみの交流だけでなく、せっかくインターネットやブログ、という手段があるのだから、学級経営等やご自分の理念についても、いろいろとさらけ出して、交流していくといいと思う。(というか、わたしがそれを望んでいる)

さて、反抗期を無くそう、とか、口答えをさせないようにしよう、というアプローチはそもそも出発点が間違っている。

人間と人間との、おたがいの間柄に、そもそも、相手を否定するものが起きようはずがなく、反抗など、あり得ないもの。

反抗、とみる観方が、どこからくるのかというと、人と人とはしょせん、相いれないもの、という自分なりの人間の観方から来ていると思う。

冷たい、さびしい、どこか人間離れした、人間観であります。

子どもの抱えるストレスを、弱い立場に向けて吐き出そうとしている姿を「反抗期」と呼んでいるのだとしたら、あまりにもひどいネーミングです。それは「反抗」ではなく、「助けて」という悲鳴なのでありましょう。
目に入れても痛くないとさえ思ったわが子の所業を、「反抗」だなんて、親であれば片時も思いたくないはず・・・。



話がとんでしまった。


口答えのない教室で、当り前。
子どもが何を言っても、どんな言葉で、何を表現しても、まったく構わないし、それでもまったく教師は困らない

ところが、教師が簡単に困ってしまうから、口答えを無くそう、させまい、と頑張るのだろう。

困らない教師になっておれば、「反抗」や「口答え」という言葉すら、どこか別の世界の言葉、あるいは死語のようにさえ聞こえてくる。



「困らない」っての、もっと探っていきたいことだ。
焦点を当てて、考えたり、探ったり、話をしようとしている人、どれだけいるだろうか。