先生、見ててよ
なにをしていても、
「先生、見ててよ」
と言う。
それが、ただのつま先立ちだったり、ノートになにかを書くところだったり、友達とぐるぐる手を引っ張り合って回転することだったり、いろいろ。
その、一部始終を、
「見ててね」
という。
見ていて、なにか、コメントを言わねばならない。
教師になりたての頃は、このコメントが、むずかしく感じられてならなかった。
なにか、言わなきゃならん、と思っていた。
それも、子どもたちにとって、プラスになるようなことを。
今は、すっかりと、やる気を失ってしまった。
ひどいときには、子どもが目の前で何かするのを見て、直後に
「はい、見ました~」
と言って、さらっと手元のプリントのマルつけに入ることもある。
すると、子どもが
「あっ、だめだめ!!もう一回、ちゃんと見て」
というので、仕方なくまた見る。
子どもが、目の前でぐるぐると友達と回転する。
そして、終わったらしく、「どう?」とでも言いたげな顔をすると、
「はい、ぐるぐる踊りね。ありがとうございました~」
「ちがう!さっきとどこがちがうか、見てよ!」
こんなふざけたやり取りでお茶を濁しております。
こんなやり取りをしながら、
「見て」
というのは、ほんとに正常健康な子どもの姿だろうなあ、と、常々、思うのであります。
この、「見て」が、ちょっと変化球になることもある。
わざと、叱られるようなことをして、
「こら!○○!!おまえはなんで、そんなことするんだ!」
と言われるのを、期待している子も、なかには、いる。
そのくらいの、強い刺激の、視線、関心を、欲しがっている、ということ。
だから、隠れて、意地悪をしたり、教師の目線に触れないところで、さぼったり、するのではない。
きちんと、教師の目の前で、
「反抗」
してみせるのだ。
これは、教師の関心を引き付ける、絶好の手段であります。
とくに、若い女性の先生なんて、泣くほど関心をもってくれる。
年頃の男の子にとって、もう、あまりにも強い刺激なわけでありますね。
先生が、好きで、好きで、たまらないから、
「反抗する」
というの。
分かりやすいです。
あとひとつ。
むしゃくしゃして、落ち着かないで、消化できない気分を、
まるでひねりつぶすような気もちでもって、
「わざと、いけない、とされることをする」
ということがあるな、と。
事例1)
女の子をぶった。教師に諭されて、「ごめんなさい」を言った。
そして、教師に、「はい、この件については、もうおしまいにしましょう」と言われたすぐ後に、
別れ際、もう一度、小さく、女の子をぶつ。
事例2)
壁に一列に並んだ金属のフック(給食着をかける)を、リコーダーでガラガラと音をさせながら、歩いていく。
教師に
「そんなことしません!なにやってるんだ!(リコーダーが傷つくだろう!それにうるさいじゃないか!)」
と注意されて、ごめんなさい、となった。教師が背を向けて、再度歩いて行こう、とした直後に、一瞬、
リコーダーで、もう一度、壁の金属フックをこすって、「ガラガラ・・・」、とやる。
さっき言ったばっかりだろう!
となりやすい場面。
教師がカッとなるのは、おそらくこんな場面じゃないかな。
そこで、なんでこんなふうに、
「注意された直後に、その行動を、なぞるように、もう一度、小さく繰り返すのか」
ということが、気になってくる。
○小さく、繰り返す
のである。
それも、
○注意の直後
に。
「うるさい!ガラガラ音たてているのは、どいつだ!音を立てて歩くんじゃない!」
と言われて、シュン、となって、
やべえ、もうやらないどこ。
とは、決して思わない、のであります。
逆でありまして、小さく、その行為を、あたかも、テープを巻き戻したかのように、繰り返して、ちょっと、やる。
せっかく解消しかかっていた、ある種の気分を、おじゃんにされた。
教師の叱責が、ふいにしてしまった。
叱られたはずみで、解消しかかっていた気持ちを、元に戻してしまった。
それで、その無念さのみが、彼の脳を支配しているのであります。
もう、これは、解消したくて、仕方がない、という状態。
その、解消行為を、否定されてしまった。
しかし、あくまでも、解消したくて仕方がない。もう、あきらめきれない。
あきらめられない、というよりも、教師の叱責によってさらに強化された、「不満と無念さの相乗積」を、再度、解消しなくてはならなくなった状態。
それで、小さく、小さく、繰り返してしまう。
叱責の直後に、さっきの行為を、なぞるように、やってしまうかのであります。
これは、積極的に、やったことなんだろうか。
女の子をぶったのは、積極的にやったことか。
リコーダーで、廊下の金属フックをひっかけて歩き、音をガラガラさせるのは、その子にとって、どんな意味のことなんだろう。
ある意味、面白半分、ふざけて実験してみた、という気軽なもの?
それとも、もう、
止むに止まれず
なにかの気分を、解消したくて、やらざるを得ない気分の、行為だったのか。
わたしは、後者だと思う。
叱っても、叱っても、効き目がない。
あくまでも「反抗」する。
親の気持ちを、逆なでするかのように、反抗してくる。
口答えが、まるで親の気持ちを、懸命にこき下ろすかのように、激しく、とげとげしくなる。
こんなときの「反抗」は、やっぱり、
「助けて!」
という中身なんだろうな、と思う。
さっきの、廊下の金属フックのガラガラも、
どんな気持ちでやっているのかわからない。
もしかしたら、ガラガラと音を立てて、なにか自分の気持ちをようやく整えている、叫びたい気持ちを抑えているのかもしれない。やらざるを得ないのかもしれない。
でも、今は、それはちがう。
やっていいことではない。
みんなが気持ち良いことには、なっていない。
どうせなら、みんなにいやだ、へんだ、と思われることじゃなくて、受け入れてもらえるようなことで、気分が解消できた方がいいよね。
その方が、○○くんにとっても、本当のところは、いいんじゃないか、と思う。
○○くんが、解消したい気持ちが解消できて、さらには、みんなも、それで○○くんが落ち着くなら、やっていいよ、と言ってもらえるようなことがあれば、それをした方がいいよね。
このあと、音楽室について、リコーダーを吹くのが、いやだ、という気持ちも分かる。
だって、音楽の先生、すぐに怒るんだし・・・。
だから、音楽の先生にお願いをして、「ここだけ練習すればいいよ」というところ、教えてもらおうよ。
そして、そこだけなら、○○くんも、頑張れる。みんなと一緒に、全部やれなきゃいけない、というんじゃなくて、ぼく用に、頑張れる範囲を、決めてもらおうよ。
それなら、どう?
問題は、別のところにある、ということが、多いように思う。
表面しか、見てない場合だと・・・・。
「先生、見ててよ」
と言う。
それが、ただのつま先立ちだったり、ノートになにかを書くところだったり、友達とぐるぐる手を引っ張り合って回転することだったり、いろいろ。
その、一部始終を、
「見ててね」
という。
見ていて、なにか、コメントを言わねばならない。
教師になりたての頃は、このコメントが、むずかしく感じられてならなかった。
なにか、言わなきゃならん、と思っていた。
それも、子どもたちにとって、プラスになるようなことを。
今は、すっかりと、やる気を失ってしまった。
ひどいときには、子どもが目の前で何かするのを見て、直後に
「はい、見ました~」
と言って、さらっと手元のプリントのマルつけに入ることもある。
すると、子どもが
「あっ、だめだめ!!もう一回、ちゃんと見て」
というので、仕方なくまた見る。
子どもが、目の前でぐるぐると友達と回転する。
そして、終わったらしく、「どう?」とでも言いたげな顔をすると、
「はい、ぐるぐる踊りね。ありがとうございました~」
「ちがう!さっきとどこがちがうか、見てよ!」
こんなふざけたやり取りでお茶を濁しております。
こんなやり取りをしながら、
「見て」
というのは、ほんとに正常健康な子どもの姿だろうなあ、と、常々、思うのであります。
この、「見て」が、ちょっと変化球になることもある。
わざと、叱られるようなことをして、
「こら!○○!!おまえはなんで、そんなことするんだ!」
と言われるのを、期待している子も、なかには、いる。
そのくらいの、強い刺激の、視線、関心を、欲しがっている、ということ。
だから、隠れて、意地悪をしたり、教師の目線に触れないところで、さぼったり、するのではない。
きちんと、教師の目の前で、
「反抗」
してみせるのだ。
これは、教師の関心を引き付ける、絶好の手段であります。
とくに、若い女性の先生なんて、泣くほど関心をもってくれる。
年頃の男の子にとって、もう、あまりにも強い刺激なわけでありますね。
先生が、好きで、好きで、たまらないから、
「反抗する」
というの。
分かりやすいです。
あとひとつ。
むしゃくしゃして、落ち着かないで、消化できない気分を、
まるでひねりつぶすような気もちでもって、
「わざと、いけない、とされることをする」
ということがあるな、と。
事例1)
女の子をぶった。教師に諭されて、「ごめんなさい」を言った。
そして、教師に、「はい、この件については、もうおしまいにしましょう」と言われたすぐ後に、
別れ際、もう一度、小さく、女の子をぶつ。
事例2)
壁に一列に並んだ金属のフック(給食着をかける)を、リコーダーでガラガラと音をさせながら、歩いていく。
教師に
「そんなことしません!なにやってるんだ!(リコーダーが傷つくだろう!それにうるさいじゃないか!)」
と注意されて、ごめんなさい、となった。教師が背を向けて、再度歩いて行こう、とした直後に、一瞬、
リコーダーで、もう一度、壁の金属フックをこすって、「ガラガラ・・・」、とやる。
さっき言ったばっかりだろう!
となりやすい場面。
教師がカッとなるのは、おそらくこんな場面じゃないかな。
そこで、なんでこんなふうに、
「注意された直後に、その行動を、なぞるように、もう一度、小さく繰り返すのか」
ということが、気になってくる。
○小さく、繰り返す
のである。
それも、
○注意の直後
に。
「うるさい!ガラガラ音たてているのは、どいつだ!音を立てて歩くんじゃない!」
と言われて、シュン、となって、
やべえ、もうやらないどこ。
とは、決して思わない、のであります。
逆でありまして、小さく、その行為を、あたかも、テープを巻き戻したかのように、繰り返して、ちょっと、やる。
せっかく解消しかかっていた、ある種の気分を、おじゃんにされた。
教師の叱責が、ふいにしてしまった。
叱られたはずみで、解消しかかっていた気持ちを、元に戻してしまった。
それで、その無念さのみが、彼の脳を支配しているのであります。
もう、これは、解消したくて、仕方がない、という状態。
その、解消行為を、否定されてしまった。
しかし、あくまでも、解消したくて仕方がない。もう、あきらめきれない。
あきらめられない、というよりも、教師の叱責によってさらに強化された、「不満と無念さの相乗積」を、再度、解消しなくてはならなくなった状態。
それで、小さく、小さく、繰り返してしまう。
叱責の直後に、さっきの行為を、なぞるように、やってしまうかのであります。
これは、積極的に、やったことなんだろうか。
女の子をぶったのは、積極的にやったことか。
リコーダーで、廊下の金属フックをひっかけて歩き、音をガラガラさせるのは、その子にとって、どんな意味のことなんだろう。
ある意味、面白半分、ふざけて実験してみた、という気軽なもの?
それとも、もう、
止むに止まれず
なにかの気分を、解消したくて、やらざるを得ない気分の、行為だったのか。
わたしは、後者だと思う。
叱っても、叱っても、効き目がない。
あくまでも「反抗」する。
親の気持ちを、逆なでするかのように、反抗してくる。
口答えが、まるで親の気持ちを、懸命にこき下ろすかのように、激しく、とげとげしくなる。
こんなときの「反抗」は、やっぱり、
「助けて!」
という中身なんだろうな、と思う。
さっきの、廊下の金属フックのガラガラも、
どんな気持ちでやっているのかわからない。
もしかしたら、ガラガラと音を立てて、なにか自分の気持ちをようやく整えている、叫びたい気持ちを抑えているのかもしれない。やらざるを得ないのかもしれない。
でも、今は、それはちがう。
やっていいことではない。
みんなが気持ち良いことには、なっていない。
どうせなら、みんなにいやだ、へんだ、と思われることじゃなくて、受け入れてもらえるようなことで、気分が解消できた方がいいよね。
その方が、○○くんにとっても、本当のところは、いいんじゃないか、と思う。
○○くんが、解消したい気持ちが解消できて、さらには、みんなも、それで○○くんが落ち着くなら、やっていいよ、と言ってもらえるようなことがあれば、それをした方がいいよね。
このあと、音楽室について、リコーダーを吹くのが、いやだ、という気持ちも分かる。
だって、音楽の先生、すぐに怒るんだし・・・。
だから、音楽の先生にお願いをして、「ここだけ練習すればいいよ」というところ、教えてもらおうよ。
そして、そこだけなら、○○くんも、頑張れる。みんなと一緒に、全部やれなきゃいけない、というんじゃなくて、ぼく用に、頑張れる範囲を、決めてもらおうよ。
それなら、どう?
問題は、別のところにある、ということが、多いように思う。
表面しか、見てない場合だと・・・・。