「目標達成感、夢の成就感、ハングリー精神」を教えるのは不可能!
6年生の先生のボヤキ。
「目標がちっとも立てられないの」
職員室のイスに座るなり、だれかれと言うこともなく、お話を始められます。
職員室は大きな一つの部屋なので、みんなそれぞれのイスに腰掛けて、自分の仕事をしている。
その中で、こういう大きめの声で話をしている人がいれば、なんとなく相槌を打ってくれる人もいます。
こういうところ、やはり人は、人とつながっているのだと思う瞬間です。
「ん?○○先生、どーしたの・・・。」
低学年の、年配のおばあちゃん先生(失礼!)が、手を忙しく動かしながらも、なんとなく受けてくれます。
(この先生の母性のすばらしさ!子どもに大人気)
6年生の先生も、手元の資料をバインダーに綴じながら、おしゃべりを続けます。
「もう卒業間近だから、冬休み明けからずっと、中学進学前の目標を立てさせて、みんなそれにむかって、がんばっているわけよ。」
卒業間近の学級は、よくこういうこと、やりますね。
廊下に貼りだして、各自の
「中学入学、小学校卒業を目前にした、わたしたちの今の努力目標」
を明らかにするわけです。
すがすがしさが廊下中に漂って、なにかいい感じ。
新しい環境に進んでいくんだ、という、新しさに向かっていける幸福な感じがある。
ところが、昔からノーテンキだったSくんは、ちっとも目標が決まらず、定まらないまま、なんとなしにここまできてしまっている、という。
「もうすぐ保護者が見に来るでしょう(参観日がある)。Sくんだけ、具体的な目標がちっとも決まらないんだよね。」
なるほど。
Sくんだけ、
「まとめの勉強をいろいろがんばる」
という、なんとも抽象的な、冴えない感じの、いわば
「書か・さ・れ・た感いっぱい」
の目標で、お茶をにごしているらしい。
「達成感を味あわせてあげたいけど、これじゃあダメだわ」
他の子は、
↑ <いい目標>を掲げている!
「すごいよ。みんな。頑張っているのにさ。Sくんだけ、やる気ないもん」
6年生の先生、ハーッ、とため息であります。
わたしは可笑しくなってしまって、思わず、
自分の席で、ニヤニヤしてしまいます。
Sくん、いいなあ。
うちのクラスだったら、みんなSくんみたいになるぞ。
と、思うね。
目標達成感、夢の成就感、ハングリー精神、というもの。
こういうの、教えられているんだと思う。
今の世の中、すごい価値づけられている。
目標を達成しました!と大声で言うと、拍手が起こり、尊敬のまなざしで見られること、多い。
「夢」
という言葉も、たいへんに価値が高いものとして、日本人の大好きな言葉になっているようだ。
星野仙一さんは、揮毫するとき、たいてい、この
「夢」
という字を選んでいる。
さらにいえば、ハングリー精神。
これも、今の社会の中では、特別に大事なものとして、認識されているらしい。
中教審だったか教育懇話会だったか・・・。
これからの教育を考える政府の機関のようなところで、どこかの識者が、「ハングリー精神を正しく教え込む」ことの大事さ、を訴えていたような気がする。
しかし、これらの、
「目標達成感、夢の成就感、ハングリー精神」
というもの、わたしのクラスには、おそらくまったく、価値づけられないと思う。
それはいかに教え込もうとしても、軽くスルーされてしまうからだし、子どもたちが、心の奥底で拒否してしまうからで、大人のせいではない。私の責任でもないと思う。
一応、私なりに頑張ってみたものの、ダメだった。
子どもたちの世界には、これらは「位置づけられない」らしく、どうしてもスルーされてしまう。
もう、わたしゃ、あきらめました。
どうして子どもたち、この素晴らしい価値が分からないのかな・・・。
目標を達成したら、立派だ、すごいじゃないか!
と言っても、みんなおそらく、シーンとして、
「すごいかもしれないけど、わたしはべつにいいし」
という感じだろう。
それから、
夢をかなえる、夢を実現することが、人間としての最高の幸せだ!
と言ってみても、
「ぼくは、べつに叶えなくてもいいよ・・・」
と、いうと思う。
また、
ハングリー精神が大事!これが人間のパワーを引き出してくれるんだ!
と叫んでみると、
「なにそれ・・・、べつに要らない」
と言うだろう。
振り返ると、うちの学級は、春の運動会で、
運動会です!赤組、みんなで勝ちましょう!
と代表の先生が壇上で叫んでも、
「べつに負けてもいいけど」
とつぶやいた子がいて、みんながうなずいたクラスですから、どうしようもない。
その後、これじゃいけん、と私が焦って、
(このままじゃ、のんべんだらりと盛り上がらない運動会になっちまう!)
「みんな!ぜったいに、勝ちに行こうぜ!」
と大演説をぶった。
「白組なんかに、ゼッタイ負けたくないよな!みんな!!!」
しかし、そのときの子どもたちの様子、ちょっと気になりました。
ノッテこないというか、白けているというか・・・。
こっちの挙動不審なテンションの高さに驚いて、目が点になっている子もいたり・・・
その直後。
休み時間に、子どもが近寄ってきて、まるで幼な子をなだめるようなニュアンスで、
「先生、だいじょうぶだよ。きっと勝てるよ。心配ないって」
と言いに来たとき、わたしはずっこけましたね。
コッチが焦っているのを見て、なぐさめに来てくれたわけかよ・・・。
いったい、その他人事のような態度はなんだッ!
これ、叱りつけても、効果ないんだよね。
だって、子どもら、そうは思わないんだから・・・ネ。
「目標がちっとも立てられないの」
職員室のイスに座るなり、だれかれと言うこともなく、お話を始められます。
職員室は大きな一つの部屋なので、みんなそれぞれのイスに腰掛けて、自分の仕事をしている。
その中で、こういう大きめの声で話をしている人がいれば、なんとなく相槌を打ってくれる人もいます。
こういうところ、やはり人は、人とつながっているのだと思う瞬間です。
「ん?○○先生、どーしたの・・・。」
低学年の、年配のおばあちゃん先生(失礼!)が、手を忙しく動かしながらも、なんとなく受けてくれます。
(この先生の母性のすばらしさ!子どもに大人気)
6年生の先生も、手元の資料をバインダーに綴じながら、おしゃべりを続けます。
「もう卒業間近だから、冬休み明けからずっと、中学進学前の目標を立てさせて、みんなそれにむかって、がんばっているわけよ。」
卒業間近の学級は、よくこういうこと、やりますね。
廊下に貼りだして、各自の
「中学入学、小学校卒業を目前にした、わたしたちの今の努力目標」
を明らかにするわけです。
すがすがしさが廊下中に漂って、なにかいい感じ。
新しい環境に進んでいくんだ、という、新しさに向かっていける幸福な感じがある。
ところが、昔からノーテンキだったSくんは、ちっとも目標が決まらず、定まらないまま、なんとなしにここまできてしまっている、という。
「もうすぐ保護者が見に来るでしょう(参観日がある)。Sくんだけ、具体的な目標がちっとも決まらないんだよね。」
なるほど。
Sくんだけ、
「まとめの勉強をいろいろがんばる」
という、なんとも抽象的な、冴えない感じの、いわば
「書か・さ・れ・た感いっぱい」
の目標で、お茶をにごしているらしい。
「達成感を味あわせてあげたいけど、これじゃあダメだわ」
他の子は、
○小学生で習う漢字をすべて復習しノートに書く。
○英語の短い文を100書く。
○6年生のまとめドリル、算数すべて満点になるまで復習完成する。
○理科ノートまとめ、社会ノートまとめ、両方とも最後ページまでやりきる。
↑ <いい目標>を掲げている!
「すごいよ。みんな。頑張っているのにさ。Sくんだけ、やる気ないもん」
6年生の先生、ハーッ、とため息であります。
わたしは可笑しくなってしまって、思わず、
自分の席で、ニヤニヤしてしまいます。
Sくん、いいなあ。
うちのクラスだったら、みんなSくんみたいになるぞ。
と、思うね。
目標達成感、夢の成就感、ハングリー精神、というもの。
こういうの、教えられているんだと思う。
今の世の中、すごい価値づけられている。
目標を達成しました!と大声で言うと、拍手が起こり、尊敬のまなざしで見られること、多い。
「夢」
という言葉も、たいへんに価値が高いものとして、日本人の大好きな言葉になっているようだ。
星野仙一さんは、揮毫するとき、たいてい、この
「夢」
という字を選んでいる。
さらにいえば、ハングリー精神。
これも、今の社会の中では、特別に大事なものとして、認識されているらしい。
中教審だったか教育懇話会だったか・・・。
これからの教育を考える政府の機関のようなところで、どこかの識者が、「ハングリー精神を正しく教え込む」ことの大事さ、を訴えていたような気がする。
しかし、これらの、
「目標達成感、夢の成就感、ハングリー精神」
というもの、わたしのクラスには、おそらくまったく、価値づけられないと思う。
それはいかに教え込もうとしても、軽くスルーされてしまうからだし、子どもたちが、心の奥底で拒否してしまうからで、大人のせいではない。私の責任でもないと思う。
一応、私なりに頑張ってみたものの、ダメだった。
子どもたちの世界には、これらは「位置づけられない」らしく、どうしてもスルーされてしまう。
もう、わたしゃ、あきらめました。
どうして子どもたち、この素晴らしい価値が分からないのかな・・・。
目標を達成したら、立派だ、すごいじゃないか!
と言っても、みんなおそらく、シーンとして、
「すごいかもしれないけど、わたしはべつにいいし」
という感じだろう。
それから、
夢をかなえる、夢を実現することが、人間としての最高の幸せだ!
と言ってみても、
「ぼくは、べつに叶えなくてもいいよ・・・」
と、いうと思う。
また、
ハングリー精神が大事!これが人間のパワーを引き出してくれるんだ!
と叫んでみると、
「なにそれ・・・、べつに要らない」
と言うだろう。
振り返ると、うちの学級は、春の運動会で、
運動会です!赤組、みんなで勝ちましょう!
と代表の先生が壇上で叫んでも、
「べつに負けてもいいけど」
とつぶやいた子がいて、みんながうなずいたクラスですから、どうしようもない。
その後、これじゃいけん、と私が焦って、
(このままじゃ、のんべんだらりと盛り上がらない運動会になっちまう!)
「みんな!ぜったいに、勝ちに行こうぜ!」
と大演説をぶった。
「白組なんかに、ゼッタイ負けたくないよな!みんな!!!」
しかし、そのときの子どもたちの様子、ちょっと気になりました。
ノッテこないというか、白けているというか・・・。
こっちの挙動不審なテンションの高さに驚いて、目が点になっている子もいたり・・・
その直後。
休み時間に、子どもが近寄ってきて、まるで幼な子をなだめるようなニュアンスで、
「先生、だいじょうぶだよ。きっと勝てるよ。心配ないって」
と言いに来たとき、わたしはずっこけましたね。
コッチが焦っているのを見て、なぐさめに来てくれたわけかよ・・・。
「やっぱ、先生は勝ちたいんだってー」
「へえー」
いったい、その他人事のような態度はなんだッ!
これ、叱りつけても、効果ないんだよね。
だって、子どもら、そうは思わないんだから・・・ネ。
「夢ですか?ハァ?という子には、学校教育は、もはや打つ手なしッ!!」