叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

何が本質?

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ほんっとに、久しぶりに、日本経済新聞を読んだ。
泊まったホテルに置いてあったから。

すると、双日研究所(←?うろ覚えですみません)というシンクタンクの人と、NPO世界環境経済研究所(←?ウロ覚えですみません)とかいうシンクタンクの人が、石油の購入費用と原発のことで話し合っていた。

そこで、目にとまったのは、

「今求められているのは、火力にたよりすぎない、トータルバランスを含めた日本全体の発電コストをきっちり考える、本質的な議論ですね。」


ってな感じのことを片方の人が言い、

原子力発電の再稼働を視野に入れる。まさに、そうした本質論こそが、求められていますね。」

ってな感じに、もう片っぽの人も応じた、という、意見広告でした。

放射能汚染対策と核ゴミのコストも、発電コストに含めた方がいいんじゃない?というのはさておき、

おもしれえーなー、と、思いました。

こういうところに、本質、という言葉を、使うんだ~・・・てネ。

発電コストが、本質的、なんだ。
この人にとっては。



つまり。

原発推進の人にとっては、

火力発電のための原油購入のコストについて議論する行為が本質的、と考える。

原発をやめたい人々にとっては、

人体への悪い影響と、食品や大気汚染の度合い、人間心理への負担や医療コスト、「失われた故郷」のもつ意味や生きがいについて、さらには生物全般の健康正常な暮らしについて議論する行為を本質的、と考える。

立場によって、本質的、という言葉のもつ意味は、まったくもって変化する。

しかし、人間は、本質的、を好む。

より、自分の意見を、先鋭化させたいからだ。

いろんなことを、突き詰めて考えたい、という人、多い、と思う。

ところが、自分の立場で、本質的、を語っているうちは、実は、本質的な議論にはならない。

何故なら、自分の意見の方向を、ボルトとナットで固く締めつけて、絶対に逸脱しないようにしてから、語り始めるからだ。

つまり、本質的な議論というものは、万人が好むものだが、実は絶対になし得ないもの。

もし、実現するとしたら、ものすごいこと。
たぶん、世界中見回してみても・・・

そのくらい、人間は、話し合うことが、できない。
自分の中の「本質的」を、ともかくスピーチすることはできるが、相手の中の「本質的」に、心から寄り添うことは、できない。


人間どうしが、人間のことを脇へ置いといて、人間を忘れた話をしてるの。


それで、・・・「本質的」って、言えるの?

言い過ぎじゃねーかなー・・・



テレビでよく、討論番組をする。
実はみんな気づいているけど、ほとんど話し合いには、なっていない。
みんな、相手の話を、聞いてない。
自分が喋るタイミングを伺うので、精一杯だから。

これみてると、小学校の教育というのは、ことごとく、失敗してきたんだナ、と暗澹たる気持ちになる。

国会議員が、話を聞けないんだもの。

この国会議員が、小学校にきたら、一番叱られちゃうね。
「話を聞きなさい!」ってね。
私は叱らんけど。




一年生の方が、まだまともに、話し合ってるよ。

国会議員は全員、教室を見に来てほしい。
6歳の子たちが、いかに相手の話を聞いているかが、分かるよ。

だって、この話し合いのあと、みんなでドッジボールするんだもん。


好きな友達の話は、聞く!


・・・ってものだからね。


本質的な議論って