牛乳をこぼした場面を見て・・・
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教室ではよくあることで、牛乳瓶を倒してこぼしてしまう。
わたしの暮らす愛知県岡崎市では、都会のように牛乳パックではなく、未だに牛乳瓶だ。
こぼしてしまった瞬間、当の本人は、
「あっ!」
と言う。
そして、隣の子が、
「あ、たおれた!」
と言って、とっさに、床を拭いてくれようとする。椅子の下の雑巾を、すぐに用意している。
こぼした本人は、机の上が豪快にぬれてしまっているから、机の上のトレイ(おぼん)をそっと持って、廊下の流しに運んでいく。
うしろの子が、気をきかせて、わたしに聞こえるように、
「先生!こぼしちゃったよっ!」
と報告してくれる。
その子はそのまま、今度はいわゆる机の上を拭くための、「キレイ」雑巾をもってきて、牛乳のこぼれた机の上を、きれいに拭いてくれる。
床にこぼれ落ちた牛乳を拭いてくれている子が、
「あ、赤白帽子もぬれちゃってるよ~」
と、見つけたことを報告してくれている。
ところが、前の席の男子が、とっさにこう言った。
「あっ!おれの椅子にも、牛乳が飛び散ってる!」
そして、そのまま何もせず、(つまり、拭いたりすることをせず)食べ続けたのだ。
気の利く、後ろの席の女子が、
「どこよ」
と言って、そっちも拭いてくれている。
食べつづける男子は、自分の椅子の背もたれ部分を女子に拭かせて、そのまま食べ続けている。
さて、こぼしてしまった本人は食器やトレイをきれいにしてきて、ふたたび食べ始めようとする。
雑巾で拭いていた子たちも、それぞれに片づけ、雑巾は洗ってしぼり、干したところまでして、そのまま席に戻る。
わたしが、
「どう?だいじょうぶ?」
と声をかけると、
「だいじょうぶです」
本人が言って、状態は正常に戻る。
こぼれたとき、わたしは、自分の分を食べながら、じっと周りの子たちを見ている。
時折、わたしに対して、牛乳をこぼしてしまったことを報告するときなど、子どもはわたしを見るから、わたしはそのままその子の目を見ている。
床を拭いている子も、なんとなく、わたしを見ることがある。
わたしは、最初からその子を見ているから、その子がわたしを見るときに、目が合う。
会話はないが、床を拭く子、後ろの席から報告をする子、隣の子、全員と目が合う。
こぼしてしまった当の本人も、わたしと目が合う。
この場面に、評価は要るかどうか。
不要ですよね。
ところが、この場面を見ていて、あとでSくんがこう発言をした。
「前の席のTくんは、拭こうとしないで食べ続けていた」
Sくんは、他の子の間違いを、指摘したいタイプです。
いいかどうか。
私に確認をしたがる。
いろんなことで。
Sくんは、Tくんの行動が、いいのか悪いのか、とわたしに聞きたいわけ。
周囲の子は、牛乳がこぼれたので、拭いている。
わたしに状況を報告する子もいる。
赤白帽子に飛沫がかかってしまったくらいだから、みんなの足元は大丈夫か、とそこまで気にして声をかけてくれる子もいる。
ところが、Tくんは、だまって、自分の分を食べ続けていたうえに、自分の椅子の背もたれにまで牛乳がついていたのを見ると、「あ、俺の椅子にも」と文句のようなことも言ったのだ。Sくんにすると、「あっ、俺の椅子までよごしやがって」というようなTくんの態度であった。さすがに、こんなふてぶてしい態度はありえないでしょう、というのである。
Sくんの希望は、要するに先生に、Tくんの行動についてダメ出しをしてほしい、ということね。
ところが、Tくんの心のうちは、私には分からない。
外面や言動だけを見て、彼の心のうちまで分かるものではない。
ああかな、こうかな、と勝手な推測をめぐらすことはできるが、それが当たって一致するかどうか、と考えると、一致することはあり得ない。彼が「牛乳がこぼれたこと」について感じていることと、私がそれについて想像することとが、一致するわけがない。
ありえないので、分かるわけがない。
わたしは、Tくんの思考や考えすらも、分からない。
Tくんが困っていなければ、わたしの出番らしきものは、おそらくないのだろうと思う。
わたしは仕方なく、
「クラス全員に訊くけど、牛乳がこぼれてしまったから、拭いたり片づけたり、しようかな、と考えた子はどのくらいいるの?」
と聞いた。
すると、Tくんも、シッカリ、手を挙げておりました。
「じゃなんで、文句だけ言って、座ってたの」
Sくんが尋ねると、
「だって、もう3人くらい動いていたから、ぼくが立ったら邪魔になると思った」
ということでした。
手伝いたい気持ちはあったんだねえ・・・。外見じゃわかんなかったけど。
姿や形、外面、見えるもの、言動をみて、その子の気持ちや考えが、分かるわけがない。
気持ちや考えだって、どこかで学習したことなんだし、これまで10年ほどかけて、外部から吸収し学んで身につけたものがほとんど。本当を言うと、気持ちや考えも全部がその子本人のもの、というわけでもない。
だれが、その子を責めることができるか。
だれも、できっこないね。
教室ではよくあることで、牛乳瓶を倒してこぼしてしまう。
わたしの暮らす愛知県岡崎市では、都会のように牛乳パックではなく、未だに牛乳瓶だ。
こぼしてしまった瞬間、当の本人は、
「あっ!」
と言う。
そして、隣の子が、
「あ、たおれた!」
と言って、とっさに、床を拭いてくれようとする。椅子の下の雑巾を、すぐに用意している。
こぼした本人は、机の上が豪快にぬれてしまっているから、机の上のトレイ(おぼん)をそっと持って、廊下の流しに運んでいく。
うしろの子が、気をきかせて、わたしに聞こえるように、
「先生!こぼしちゃったよっ!」
と報告してくれる。
その子はそのまま、今度はいわゆる机の上を拭くための、「キレイ」雑巾をもってきて、牛乳のこぼれた机の上を、きれいに拭いてくれる。
床にこぼれ落ちた牛乳を拭いてくれている子が、
「あ、赤白帽子もぬれちゃってるよ~」
と、見つけたことを報告してくれている。
ところが、前の席の男子が、とっさにこう言った。
「あっ!おれの椅子にも、牛乳が飛び散ってる!」
そして、そのまま何もせず、(つまり、拭いたりすることをせず)食べ続けたのだ。
気の利く、後ろの席の女子が、
「どこよ」
と言って、そっちも拭いてくれている。
食べつづける男子は、自分の椅子の背もたれ部分を女子に拭かせて、そのまま食べ続けている。
さて、こぼしてしまった本人は食器やトレイをきれいにしてきて、ふたたび食べ始めようとする。
雑巾で拭いていた子たちも、それぞれに片づけ、雑巾は洗ってしぼり、干したところまでして、そのまま席に戻る。
わたしが、
「どう?だいじょうぶ?」
と声をかけると、
「だいじょうぶです」
本人が言って、状態は正常に戻る。
こぼれたとき、わたしは、自分の分を食べながら、じっと周りの子たちを見ている。
時折、わたしに対して、牛乳をこぼしてしまったことを報告するときなど、子どもはわたしを見るから、わたしはそのままその子の目を見ている。
床を拭いている子も、なんとなく、わたしを見ることがある。
わたしは、最初からその子を見ているから、その子がわたしを見るときに、目が合う。
会話はないが、床を拭く子、後ろの席から報告をする子、隣の子、全員と目が合う。
こぼしてしまった当の本人も、わたしと目が合う。
この場面に、評価は要るかどうか。
不要ですよね。
ところが、この場面を見ていて、あとでSくんがこう発言をした。
「前の席のTくんは、拭こうとしないで食べ続けていた」
Sくんは、他の子の間違いを、指摘したいタイプです。
いいかどうか。
私に確認をしたがる。
いろんなことで。
Sくんは、Tくんの行動が、いいのか悪いのか、とわたしに聞きたいわけ。
周囲の子は、牛乳がこぼれたので、拭いている。
わたしに状況を報告する子もいる。
赤白帽子に飛沫がかかってしまったくらいだから、みんなの足元は大丈夫か、とそこまで気にして声をかけてくれる子もいる。
ところが、Tくんは、だまって、自分の分を食べ続けていたうえに、自分の椅子の背もたれにまで牛乳がついていたのを見ると、「あ、俺の椅子にも」と文句のようなことも言ったのだ。Sくんにすると、「あっ、俺の椅子までよごしやがって」というようなTくんの態度であった。さすがに、こんなふてぶてしい態度はありえないでしょう、というのである。
Sくんの希望は、要するに先生に、Tくんの行動についてダメ出しをしてほしい、ということね。
ところが、Tくんの心のうちは、私には分からない。
外面や言動だけを見て、彼の心のうちまで分かるものではない。
ああかな、こうかな、と勝手な推測をめぐらすことはできるが、それが当たって一致するかどうか、と考えると、一致することはあり得ない。彼が「牛乳がこぼれたこと」について感じていることと、私がそれについて想像することとが、一致するわけがない。
ありえないので、分かるわけがない。
わたしは、Tくんの思考や考えすらも、分からない。
Tくんが困っていなければ、わたしの出番らしきものは、おそらくないのだろうと思う。
わたしは仕方なく、
「クラス全員に訊くけど、牛乳がこぼれてしまったから、拭いたり片づけたり、しようかな、と考えた子はどのくらいいるの?」
と聞いた。
すると、Tくんも、シッカリ、手を挙げておりました。
「じゃなんで、文句だけ言って、座ってたの」
Sくんが尋ねると、
「だって、もう3人くらい動いていたから、ぼくが立ったら邪魔になると思った」
ということでした。
手伝いたい気持ちはあったんだねえ・・・。外見じゃわかんなかったけど。
姿や形、外面、見えるもの、言動をみて、その子の気持ちや考えが、分かるわけがない。
気持ちや考えだって、どこかで学習したことなんだし、これまで10年ほどかけて、外部から吸収し学んで身につけたものがほとんど。本当を言うと、気持ちや考えも全部がその子本人のもの、というわけでもない。
だれが、その子を責めることができるか。
だれも、できっこないね。