叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

長くつ下のピッピは「戦争をしない」子

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長くつ下のピッピは、スウェーデンの児童小説であります。
ずいぶん古い作品なのだが、相変わらず世界中で人気がある。
カナダでアニメにもなった。

先日、そのアニメバージョンを見た。

ピッピは、学校へ来ていない。いつも自由気ままに過ごしている。
ある日、学校と言うものに、初めて来てみた。

先生が見ると、ピッピは机の上に腰かけております。
他の子どもたちは、みんなお行儀よく椅子に腰かけているのに、ピッピはまったく頓着せず、木の机に腰かけて、くつろいでいる。

先生は眉を顰(ひそ)めながら、

「あなたが初めて来たっていう子?」

「そうよ。名前はピッピ。あなたは?」


この自己紹介の仕方も、先生の気に障ります。
なんと生意気な様子だこと!

さて先生、この子は算数が分かるのかしら、と簡単に尋ねてみます。

「あなた、足し算は知ってるの?」

「もちろん。知ってるわ」

「じゃあ、教えて」


先生は問題を黒板に書きながら、

「7+5はいくつ?」

すると、ピッピは、驚いてこう答える。

「え?あなたは知らないの?」


そりゃそうでしょう。
何でも知っていて、いろいろと教えてくれるというから、学校に来てみたのに、この先生は簡単な足し算すら知らない様子なんですから!

周囲の子どもたちは、このニュアンスの食い違いを、笑って楽しんでいる。
このまわりの子たちは、いわゆる、

学校という場で、きちんと座って学ばなくてはならないし、評価を受けねばならない、という立ち場

を理解している。
一方で、このピッピの返し技に、思わず納得して笑い声をたててしまうという自分の、両方の意識を持ち合わせているのです。

先生は、ピッピから、思わぬ返し言葉を受けて、興奮して答える。

「そんな。分かりますよ、7+5くらい!・・・ハイ。7+5は、12ですよ」

ピッピはあきれて言う。

「なんだ。知ってるじゃない」


これが、痛烈な皮肉でなくてなんであろうか。

続けて、先生はピッピに矢継ぎ早に問題を出すが、ピッピはてんで相手にしない。

「もし、そういうのが好きなんだったら、ひとりでやってて。私たちは鬼ごっこしようと思うの。それとも、いっしょにやる?


教師は、ピッピの答える回答自体には、まったく関心が無い
12、という数字の意味はどうでもよく、知識があるかどうか、に関心が向く。
つまり、知識の有無を測る、評価のための質問、「質問のための質問」でしかないのだ。
だから、この二人の関係性は、血の通わない、冷えたものでしかない。

ところが、ピッピはちがう。
ピッピが「鬼ごっこする?」と尋ねるときは、先生の答える回答が、大事なのだ。
そこには、血が通っている。
もし鬼ごっこ一緒にやるわ、というのなら、

「じゃ、いっしょにやろう!始めるわよ」

ということになる。

ピッピから思わぬ声をかけられた教師は、肩をすくめて、なにかがいつものようには進まないことに驚き、ピッピの「天然ぶり」に呆れるのですが、実はほんの少し、表情がやわらぐのです。(アニメでは)

全世界で何十年とロングセラーでありつづけること、ピッピという少女に人気が集まるのにも、うなずけるでしょう。

ピッピは人を責めない。
そして、人から責められない。(責められたと受け取らない)
ひとに近寄り、そのひとの気持ちを溶かしてしまう。
そして、世界をハチャメチャに楽しく変えていく。まるで魔法をかけるように。


ピッピは、だれにも脅されない。
どんな脅迫も、「脅迫」と思わず、「そのお願いは無理よ。残念ね」と言って、さらりと流してしまう。

もし日本に「徴兵制度」が始まって、赤紙がやってきても、

「そのお願いは無理よ。残念ね」

といって、さらりと流せばいいのです。
(もとより、こういうことがサラリと言い切れるような、ピッピの心根(こころね)を知ることが条件ですけど)
ピッピは徴兵されない