叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

はんぶんおりたところ A・A・ミルン

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休み時間は、いちばん大事な時間。
その子の素顔が出てくる。

職員室へ行く道すがらに、校庭を眺めている先生や、子どもに話しかけている先生がいます。
ふと見ると、校庭へ出ていく若い男性の先生が。

「えー!ひろきくんが鬼って言ってたぞ!」

大声で子どもの名前を呼びながら、急いでくつを履いています。
その先生ご自身も、休み時間が楽しくてしょうがないのでしょう。ハハハ。

子どもだけでなく、先生の素顔だって、休み時間に見えてくる。


みんな、校庭や中庭、広場の方へ遊びに行くので、教室はがらーん。
なにげなく見ていたら、2階の教室の窓際の隅に、一人の子が立っていました。
窓のそばの、エレクトーンのふたを開けたまま、窓の外を見下ろしています。
弾こうともせず、鍵盤に指を置いたまま、下の校庭を眺めている。

何もすることがない、という感じ。
視線の先には、大勢の子たちが遊んでる。

わたしは遊ばないけど、見ていたい。
なにか、今日は、そんな気分なんでしょうな。


かいだんをはんぶんおりたところに
ぼくがいつもすわるだんが ある


こう書いたのは、『くまのプーさん』で知られるスコットランド人、A・A・ミルンです。
上の詩は、ミルンが息子のためにつくった『クリストファー・ロビンのうた』の中に入っています。
「子どもべや」から出たものの、まだ「どこ」へ行くとも決められない自分。
いさぎよく「まち」へと出ていくほどの自立力もなく、お母さんやお父さんもそれぞれ<なにか>をしていて、自分はいったいどうすれば、と宙ぶらりんのデリケートな気持ち。
そんな、かすかな、目の前の空気と同化してしまうほどの気持ち。
だから、「かいだんをはんぶんおりたところ」、なのでしょう。

かいだんのどのだんにも
このだんと そっくりなだんはない
ぼくはいちばん下のだんには すわらない
いちばん上のだんにも すわらない
だからこのだんが
ぼくのいつも やすむ だんクリストファー・ロビン
かいだんをはんぶんのぼったところに
二かいでもない 一かいでもないところがある
そんなところは子どもべやにもないし
まちのなかにもない
そこにいるといろんなかんがえが
ぼくのあたまをかけめぐる

『ここはぜったいに どこでも ない!
 ここはどこにもないところで ある!』

自分が本当に、心のやすらぎを覚える場所は、いったいどこだろう。
心底の、やすらぎを覚える場所は。


いろいろな、とりとめのない考えが、自由に頭の中をかけめぐるようになる場所は。



教室から見下ろした校庭には、谷川の水のように澄んだ、低学年の声が響いている。