「いっしょにやる」ということ
.
教育に携わるようになるずっと以前から、私には追い続けているテーマがあります。それが、「いっしょにやる」ということ。
「いっしょにやる」は、子どもが生まれながらにして、心から望んでいることなのだと思います。
一人で遊ぶ、あるいは親子二人で遊ぶという場合もあるでしょうが、子どもは友達同士、ということになると俄然、意欲を増して遊ぶものです。
私は子どもの頃、野球が好きで、よくプロ野球を見に行きました。父親と二人で見に行ったこともあったのですが、近所の友達もいっしょに連れて行ってもらったこともありました。このときの楽しさといったら、比べ物になりません。友達といっしょになって好きなチームを応援するときは、大声で何度も応援し、歌まで歌うのに、父親と二人で行くときは、そんな気分にならず、父親の横で静かに応援していました。
子どもは、やはり、友達の存在が限りなく大きいものなのだと思います。家庭用のゲーム機で遊ぶときだって、一人で遊ぶのと友達と遊ぶのとでは、まるで意味がちがってきます。子どもは心から、友の存在を希求しているのです。
ところが、小学校の学級での子どもたちを見ていると、「いっしょにやる」が、なにかズレてしまってうまくいかず、友達との関係に満足できていない子がいるのです。
いっしょにやる、ということを欲してはいるのだろうけれど、そのことの楽しさをあまり知らないのではないかな、と思うような子もいます。人といっしょに活動した体験が少ないのか、ペースを合わせることが苦手です。
何でも自分で決めてやろう、という意欲はとても大切なものです。成長に欠かせないもの、自他を区別する大事なもの。しかしいつも自分の思いが通るわけではありません。
ふつうはそれを、時間をかけて理解し、やわらかく相手の存在を受け入れていくようになるものです。
ところが、「すべてのことの決定権」が自分にはあるのだと誤解したまま過ごしてきて、小学校高学年になって、その<修正作業>を四苦八苦しながらこなそうとしている子もいます。
以前、低学年のクラスを受け持った時のことです。
クラスの子どもたち全員で、いっしょに学校内を散歩しようと歩き出すと、見たいものを見つけてピューッと歩いて行ってしまう子がいました。
「いっしょに歩きますよ」と言っても、5秒ともたず、またどこかに走っていく。
あるいは、こちらが進んでいるのに、じっとして立ち止まり、「ぼくはこれ見るから」と、みんなと一緒に歩こうとしない子。
こんなとき、個性があって良い、という観方だけでみることはしません。実は、この子は「いっしょにやる」ことの心構えや、楽しさを知らないのではないか、というようにも、一応とらえておくのです。
あまりに気になった子がいたので、後日、
「今日は先生と話をしながら、いっしょに歩くんだよ」
と言って、歌を歌ったり、しりとりをしたりしながら歩いていきました。楽しそうにしていて、雰囲気はよかったのですが、しばらくするとやはり、急にピューッと走り出そうとしました。すかさず手をつなぎ、ぎゅっと握って
「今日は、いっしょにだよ」
と、とめました。
この子にはそれ以後も同じように「相手にもペースがある」ということを伝え、気を付けて接するようにしていきました。次第に、クラスの仲間にも打ち解け、順番ぬかしのもめごとや、友達の発言の最中に話し出すといったことも少なくなっていきました。
この子は、「いっしょにやる、ということに意味を感じ取っていけた」のだと思います。いっしょにやる、ということが苦痛とセットになっていれば誰だって「いっしょにやろう」とは思わないでしょう。
ピューッと走りたかったのに手を握られとめられた。だけどその後、本当に楽しく、友達としりとりをしながら、笑って歩いていけた、というような、ヨロコビの体験がうんと大事なのだと思います。
自分がすべてを決定しなくても、誰かにゆだねたり、任せたりしていても、その相手とやわらかく気持ちを通じ合わせながら、ともに楽しめている、という状況。その状況づくりがポイントです。
だからこそ、自分の「決定権」にこだわらなくなっていけたのだと思います。
「決定権」が誰でも自分にある、というのは、本来自明なことですが、そのことにこだわらなくてもよくなることができると、子どもは、生きるのが本当に楽になっていくようです。
(教育機関誌への投稿より、抜粋)
教育に携わるようになるずっと以前から、私には追い続けているテーマがあります。それが、「いっしょにやる」ということ。
「いっしょにやる」は、子どもが生まれながらにして、心から望んでいることなのだと思います。
一人で遊ぶ、あるいは親子二人で遊ぶという場合もあるでしょうが、子どもは友達同士、ということになると俄然、意欲を増して遊ぶものです。
私は子どもの頃、野球が好きで、よくプロ野球を見に行きました。父親と二人で見に行ったこともあったのですが、近所の友達もいっしょに連れて行ってもらったこともありました。このときの楽しさといったら、比べ物になりません。友達といっしょになって好きなチームを応援するときは、大声で何度も応援し、歌まで歌うのに、父親と二人で行くときは、そんな気分にならず、父親の横で静かに応援していました。
子どもは、やはり、友達の存在が限りなく大きいものなのだと思います。家庭用のゲーム機で遊ぶときだって、一人で遊ぶのと友達と遊ぶのとでは、まるで意味がちがってきます。子どもは心から、友の存在を希求しているのです。
ところが、小学校の学級での子どもたちを見ていると、「いっしょにやる」が、なにかズレてしまってうまくいかず、友達との関係に満足できていない子がいるのです。
いっしょにやる、ということを欲してはいるのだろうけれど、そのことの楽しさをあまり知らないのではないかな、と思うような子もいます。人といっしょに活動した体験が少ないのか、ペースを合わせることが苦手です。
何でも自分で決めてやろう、という意欲はとても大切なものです。成長に欠かせないもの、自他を区別する大事なもの。しかしいつも自分の思いが通るわけではありません。
ふつうはそれを、時間をかけて理解し、やわらかく相手の存在を受け入れていくようになるものです。
ところが、「すべてのことの決定権」が自分にはあるのだと誤解したまま過ごしてきて、小学校高学年になって、その<修正作業>を四苦八苦しながらこなそうとしている子もいます。
以前、低学年のクラスを受け持った時のことです。
クラスの子どもたち全員で、いっしょに学校内を散歩しようと歩き出すと、見たいものを見つけてピューッと歩いて行ってしまう子がいました。
「いっしょに歩きますよ」と言っても、5秒ともたず、またどこかに走っていく。
あるいは、こちらが進んでいるのに、じっとして立ち止まり、「ぼくはこれ見るから」と、みんなと一緒に歩こうとしない子。
こんなとき、個性があって良い、という観方だけでみることはしません。実は、この子は「いっしょにやる」ことの心構えや、楽しさを知らないのではないか、というようにも、一応とらえておくのです。
あまりに気になった子がいたので、後日、
「今日は先生と話をしながら、いっしょに歩くんだよ」
と言って、歌を歌ったり、しりとりをしたりしながら歩いていきました。楽しそうにしていて、雰囲気はよかったのですが、しばらくするとやはり、急にピューッと走り出そうとしました。すかさず手をつなぎ、ぎゅっと握って
「今日は、いっしょにだよ」
と、とめました。
この子にはそれ以後も同じように「相手にもペースがある」ということを伝え、気を付けて接するようにしていきました。次第に、クラスの仲間にも打ち解け、順番ぬかしのもめごとや、友達の発言の最中に話し出すといったことも少なくなっていきました。
この子は、「いっしょにやる、ということに意味を感じ取っていけた」のだと思います。いっしょにやる、ということが苦痛とセットになっていれば誰だって「いっしょにやろう」とは思わないでしょう。
ピューッと走りたかったのに手を握られとめられた。だけどその後、本当に楽しく、友達としりとりをしながら、笑って歩いていけた、というような、ヨロコビの体験がうんと大事なのだと思います。
自分がすべてを決定しなくても、誰かにゆだねたり、任せたりしていても、その相手とやわらかく気持ちを通じ合わせながら、ともに楽しめている、という状況。その状況づくりがポイントです。
だからこそ、自分の「決定権」にこだわらなくなっていけたのだと思います。
「決定権」が誰でも自分にある、というのは、本来自明なことですが、そのことにこだわらなくてもよくなることができると、子どもは、生きるのが本当に楽になっていくようです。
(教育機関誌への投稿より、抜粋)