叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

三角帽子の小人

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前回からの、つづきです。



さて、ここで、壮大な思考実験をしてみる。



もしも、仮に。

この人間の反応が、まったく逆だったらどうだろうか。

つまり、相手を変えようと欲した瞬間、ものすごい快感に包まれるとしたら、どうだろう。

そうふうに、つまり、今とは逆に生まれついたとしたら・・・

人間は、相手を変えようと思うことに夢中になるだろうね



でも、実際は、そうならない。
相手の変わることを願うと、すぐに、苦しくなる。
願った瞬間、瞬時に、もう本当に、

「正しく同時に」、だ。


その正確さは、機械的、といってもいいくらい。

(ひとに嫌悪感を抱いた時を思いだしてみたら、実感できる。ほんとに、すぐ、いや~な気分になるから)





これは、なにか、わけがあるな、と思う。

だって、ものすごく、はっきりしているもの。

相手を変えようと思った瞬間、やな気分になり、落ち着かなくなる。

だれにだって、よくわかる。



これ、そうとう、無理があるんだろう、と思う。

その無理が、道理として、絶対的に無理であることを、

「切なさ」「悲しみ」「非力感」「居直り感」「責めたくなる気持ち」「スッと通じないもどかさ」その他、

もろもろの、やっかいな感情が、・・・きちんと、証明してるではないか。

無理でっせ、と。

幸福になるには、無理がありまっせ!!、と。





相手を変えようと思った瞬間、

「あんさん、そりゃあ、無理でっせ!」

という具合に、なにかが、教えてくれようとしている感じがある。


この、無理でっせ、を伝えてくれるのは、わたしにとっては相当に厳しく温かい、愛のような存在である。


といっても、イメージは、三角帽子の小さな小人(こびと)なんですが・・・。




なんで人が怒るか、というと、この三角帽子の小人が、

「あんさん、そりゃ無理です、無理でっせ」

と、何度も話しかけてくるからだろう。

そして、この、関西弁を話す小人に向かって、

「うるさい、無理じゃない、無理じゃない」

と、あらがっている、突っ張っている、だだをこねているのが、怒りなんだろう。


だとすると、怒っているひとは、本当は、相手に怒っているのではなく、小人に対抗しているだけだ、と見えてくる。


つづく。

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