「子どもは他人と同じだと喜ぶ」という件
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これだけ「個性尊重」が叫ばれているのにも関わらず、である。
子どもと暮らしていると、彼らがいかに、
「他と同じであることを尊ぶか」、誰しも驚くであろう。
そろそろ席替え、というコールがあがってきたので、じゃ、席替えしましょう、と。
みんなでくじをひいて、新しい席になった。
ご近所さんと、しばし懇談タイム。
あれこれ、と適当におしゃべりをしている。
一番前の席の、RさんとOさんが、大ッきな声で、
「えー!!おんなじだーーー!!」
急いでふたりをみると、厭そうな顔をしているかと思ったら、驚くなかれ、なんと
とっても嬉しそう
なのだ。
みなさん、このことを、どう思いますか?
これは、意外なことだ、と多くの人は思うのではないだろうか。
少なくとも、だ。
大人は、他の人と同じ服を着ていると、
「あ、かぶった(やばい)」
という反応をし、同じ職場で同じような服を着てくることはもう、滅多にない。
双方がそれを避ける。
大人の世界では、「他と違う」ことに、ステータスがある、と断じてよかろう。
ところが、子どもはちがう。
「え?Rも、『おそまつさん』みてるの?うっぁー、わたしもだよ~」
といって、嬉しそうにする、のである。
なんという、『没個性』であろうか。
さらに、お互いの兄と姉が、同じ中学の同じ学年で、同じような部活に属していることを知り、それすらも、喜んでいる。
「うっわー、男子バレーの2年なんだ。うちのお姉ちゃんは、女子バレーの2年だよ」
それで、なぜ、喜んでいるのだろうか。
わたしは、分からなくなってきた。
どうして、子どもは、お互いにちがうものを見つけようとしないで、同じ共通項を探そうとするのだろうか。
おまけに、共通項を見つけた途端、顔の表情が一瞬、うれしそうになり、晴れやかな声で、
「うっわー、いっしょ、いっしょ~」
と喜ぶのは、どうしてなのだろうか。
で、このことをぼんやり、と考えていて、休み時間に教卓の周りに集まってきた子に、
「友達と同じことと、ちがうことと、どっちを見つけるのが楽しい?」
と聞いてみると、驚くべし、「個性尊重」を叫ぶ現代の文科省の役人、それから歴々の教育界に居並ぶ教育者、世の中のありとあらゆる指導者、おまけに教育委員会の人たちも全員が泣きそうな答えが返ってきた。
「え、同じことを見つけるのが楽しい」
だって。
なんで?
と、わたしゃ、全世界の親、そしてPTA、教育者を代表して質問してみました。
すると、
「だって、ちがうことばっかりなんだから、たまに同じことをみつけるのが楽しいじゃん」
だって。
私の頭は混乱し、そこでやっと、わたしの、
「個性」の認識が、少しずれていた
ということを知りました。
つまり、子どもというのは最初から一人ひとりちがい、存在が個性差そのものなので、たまに人と同じ共通項を見つける方が、むしろたいへんだ、ということです。
最初から十分すぎるほど個性的なので、これ以上、
「個性、個性、個性の尊重!」
と叫ばずとも、もう、大丈夫よ、ということらしい。
「同じ」とは、何だろうか。
昨日の自分は、今日の自分では、ない。
考えてみれば、同じ人間はいない。
互いに似せよう、似せようとして最大に努力したとしても、どうしても同じになれない、相容れないものを「個性」と言うのだろう。
授業をしていると、それがよく分かる。
いろんな意見が出る。
それぞれ、少しずつ、違いがある。
子どもたちは、違いがある、ところからスタートしているから、共通項を探すのだ。
意見を出し合っているうちに、なるほど、と思う部分があるから、お互いに共感しあうことができる。
だから、
「ああ、わかる、わかる」
と言ってもらえると、最高に嬉しいのだろう。
友の憂いを共に憂い、友の悲しみを共に悲しむ。
これがなけりゃ、人間、やってらんないよ。
そして、本当に、まったく、ぜんっぜん、理解ができない意見については、おそらく、「ふうん」で終わり。
可も不可もない。なにも生まれないけど、仕方がない。
しょせん、ちがう人間だもの。
「ふうん」で、いいよネ。
これだけ「個性尊重」が叫ばれているのにも関わらず、である。
子どもと暮らしていると、彼らがいかに、
「他と同じであることを尊ぶか」、誰しも驚くであろう。
そろそろ席替え、というコールがあがってきたので、じゃ、席替えしましょう、と。
みんなでくじをひいて、新しい席になった。
ご近所さんと、しばし懇談タイム。
あれこれ、と適当におしゃべりをしている。
一番前の席の、RさんとOさんが、大ッきな声で、
「えー!!おんなじだーーー!!」
急いでふたりをみると、厭そうな顔をしているかと思ったら、驚くなかれ、なんと
とっても嬉しそう
なのだ。
みなさん、このことを、どう思いますか?
これは、意外なことだ、と多くの人は思うのではないだろうか。
少なくとも、だ。
大人は、他の人と同じ服を着ていると、
「あ、かぶった(やばい)」
という反応をし、同じ職場で同じような服を着てくることはもう、滅多にない。
双方がそれを避ける。
大人の世界では、「他と違う」ことに、ステータスがある、と断じてよかろう。
ところが、子どもはちがう。
「え?Rも、『おそまつさん』みてるの?うっぁー、わたしもだよ~」
といって、嬉しそうにする、のである。
なんという、『没個性』であろうか。
さらに、お互いの兄と姉が、同じ中学の同じ学年で、同じような部活に属していることを知り、それすらも、喜んでいる。
「うっわー、男子バレーの2年なんだ。うちのお姉ちゃんは、女子バレーの2年だよ」
それで、なぜ、喜んでいるのだろうか。
わたしは、分からなくなってきた。
どうして、子どもは、お互いにちがうものを見つけようとしないで、同じ共通項を探そうとするのだろうか。
おまけに、共通項を見つけた途端、顔の表情が一瞬、うれしそうになり、晴れやかな声で、
「うっわー、いっしょ、いっしょ~」
と喜ぶのは、どうしてなのだろうか。
で、このことをぼんやり、と考えていて、休み時間に教卓の周りに集まってきた子に、
「友達と同じことと、ちがうことと、どっちを見つけるのが楽しい?」
と聞いてみると、驚くべし、「個性尊重」を叫ぶ現代の文科省の役人、それから歴々の教育界に居並ぶ教育者、世の中のありとあらゆる指導者、おまけに教育委員会の人たちも全員が泣きそうな答えが返ってきた。
「え、同じことを見つけるのが楽しい」
だって。
なんで?
と、わたしゃ、全世界の親、そしてPTA、教育者を代表して質問してみました。
すると、
「だって、ちがうことばっかりなんだから、たまに同じことをみつけるのが楽しいじゃん」
だって。
私の頭は混乱し、そこでやっと、わたしの、
「個性」の認識が、少しずれていた
ということを知りました。
つまり、子どもというのは最初から一人ひとりちがい、存在が個性差そのものなので、たまに人と同じ共通項を見つける方が、むしろたいへんだ、ということです。
最初から十分すぎるほど個性的なので、これ以上、
「個性、個性、個性の尊重!」
と叫ばずとも、もう、大丈夫よ、ということらしい。
「同じ」とは、何だろうか。
昨日の自分は、今日の自分では、ない。
考えてみれば、同じ人間はいない。
互いに似せよう、似せようとして最大に努力したとしても、どうしても同じになれない、相容れないものを「個性」と言うのだろう。
授業をしていると、それがよく分かる。
いろんな意見が出る。
それぞれ、少しずつ、違いがある。
子どもたちは、違いがある、ところからスタートしているから、共通項を探すのだ。
意見を出し合っているうちに、なるほど、と思う部分があるから、お互いに共感しあうことができる。
だから、
「ああ、わかる、わかる」
と言ってもらえると、最高に嬉しいのだろう。
友の憂いを共に憂い、友の悲しみを共に悲しむ。
これがなけりゃ、人間、やってらんないよ。
そして、本当に、まったく、ぜんっぜん、理解ができない意見については、おそらく、「ふうん」で終わり。
可も不可もない。なにも生まれないけど、仕方がない。
しょせん、ちがう人間だもの。
「ふうん」で、いいよネ。