【映画】『みんなの学校』はスペシャルか?
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映画を観終わった後、5人グループで話をした。
話題の中心は、これ。
見終わって、自分で最も意外だったのは、
「おお、特別じゃないじゃん!」
という喜びにも似た、スッと納得するような気持ちでした。
木村校長が、真摯に対応している。
真摯に、呼びかけていく。
子どもたちにも、職員にも、地域の方々にも。
その真摯な向き合い方は、本当に頭の下がる、真摯な、命をくだくような、真正面からの向き合い方だ。
そして、この学校の職員たちが、すべて特別なスキルを持った、特別な能力をもった、スペシャルな方たちばかりかというと、そうではない。ごく普通の、どこにもいる、どこにもいる、真剣な先生たちだった。
わたしは、この感じ方が、自分では意外だったけれど、終わった後の爽快感は本当に得難いものだった。
「特別人間じゃなくても、やれる!!」
いわば、木村校長は、教祖ではなかった、という感じ方か・・・。
わたしのような特別人間でないと、これは無理よ。
こんなスペシャルなことは、無理ですよ。
これは、関西の、特別な地域のことですよ。
これは、特別に選抜された、スキルの高い職員たちの決死の物語ですよ。
こんなことは、こんな学校は、二度と存在しないのですよ。
・・・という感じがするのかな、という思いは、完全に裏切られた。(いい意味で)
ただ・・・。
この学校はスペシャルなのだ、という感想を述べられた方が、同じグループにいらした。
わたしは、これも分かる気がした・・・。
どういうことか。
木村先生は、他のせいにしない。
そこが徹底している。
子どものせいに、しない。
職員のせいに、しない。
親のせいに、しない。
地域の方のせいに、しない。
つまり、誰も、責めない。
ここが、木村先生の、たった一つ、スペシャルの(ように見える、思える)点だ。
木村先生は、事件が起きたら、それが悪い、とは思っていない。
悪いことを消去する、という発想とは逆だ。
要らないものを排除しようとする、その発想とは逆だ。
なにが起きても、それが目の前の子どもの姿であり、
それを受け入れるのが当たり前、となっている。
子どもが学校から抜け出そうとする。
木村校長は、それが、悪いこととは思っていない。
そんなことも、当然のように、子どもはするだろう、それが子どもである、と思っている(ようだ)。
だから、担任は、そのことで責められることがない。
また、そのことで、担任を責める親もいない。
学校の対応を責める、地域の方もいない・・・。
つまり、この学校は、関係者を、だれも責めない。
こんなこと、あるのか?
「いや、これは、スペシャルですよ。木村泰子先生だから、できたこと。ふつうは無理です」
そう思うかどうか。
スペシャルかどうか。
「責めない」は、だれもできないことか。
それとも。
「責めない」は、一番ふつうの、もっとも人間的な感性である。
だれもが楽な、もっとも普遍的な姿である。
ふだん、私たちは、「人は相手を責めるのが当たり前」と、思い込まされていないか・・・。
映画「みんなの学校」。
有名な映画だ。
見た人の間では、すでに語り尽くされているのかもしれない。
みんな、この学校の映画を見て、どう感じたのだろう。
「責めない」は、スペシャルなことなのかどうか。
だれもが、ふつうにとれる、立てるスタンスなのかどうか。
あるいは、特別人間が、特別に学習したうえで、ようやく実現する態度なのか?
壊れやすい、もろい、すぐに消えさえってしまうような。
がんばって、がんばって、頑張らないと、実現できないような。
そんな心の状態なのだろうか?「責めない」とは?
いや、木村先生は、ちがう、と言うだろう。
私は勝手に、そう思う。
「あんた、責めるって、なんなのよ。そんなエライしんどくなるようなこと、ほんまにしようと思てんのか?あほちゃうか。責めるって、どんだけアホなことか、骨の髄まで沁みてるから、そんなことようせえへんわ。責めて叱って、なにが得やねん。責めるんちゃう。伝えるんや。これがいちばん、人間が幸せになる、まっとうな道なんやで。責めて何とかしようなんてのは、伝えるのをさぼった、いちばんの手抜きや」
これ、↑ 勝手にわたしが、木村先生なら言うんじゃないか、と思ったセリフ。
人間の心がいちばん楽なのが、「責めない」。
責めて脅して動かそうというのがいちばんの手抜きで、いちばん苦しい。
責めないで、とことん関わるのが、いちばんの手ごたえで、いちばん楽(らく)。
相手を責めたくなる自分。
責めたくて、責めたくて、苦しくなっている自分。
責めようとすると、自分がいちばん苦しくなる不思議。
人間の精神構造は、どうしてこのようにできているのだろう?
いろんなことを思う、映画だった。
映画を観終わった後、5人グループで話をした。
話題の中心は、これ。
「この話は、スペシャル(特別)な話なのか、普遍的な話なのか」
見終わって、自分で最も意外だったのは、
「おお、特別じゃないじゃん!」
という喜びにも似た、スッと納得するような気持ちでした。
木村校長が、真摯に対応している。
真摯に、呼びかけていく。
子どもたちにも、職員にも、地域の方々にも。
その真摯な向き合い方は、本当に頭の下がる、真摯な、命をくだくような、真正面からの向き合い方だ。
そして、この学校の職員たちが、すべて特別なスキルを持った、特別な能力をもった、スペシャルな方たちばかりかというと、そうではない。ごく普通の、どこにもいる、どこにもいる、真剣な先生たちだった。
わたしは、この感じ方が、自分では意外だったけれど、終わった後の爽快感は本当に得難いものだった。
「特別人間じゃなくても、やれる!!」
いわば、木村校長は、教祖ではなかった、という感じ方か・・・。
わたしのような特別人間でないと、これは無理よ。
こんなスペシャルなことは、無理ですよ。
これは、関西の、特別な地域のことですよ。
これは、特別に選抜された、スキルの高い職員たちの決死の物語ですよ。
こんなことは、こんな学校は、二度と存在しないのですよ。
・・・という感じがするのかな、という思いは、完全に裏切られた。(いい意味で)
ただ・・・。
この学校はスペシャルなのだ、という感想を述べられた方が、同じグループにいらした。
わたしは、これも分かる気がした・・・。
どういうことか。
木村先生は、他のせいにしない。
そこが徹底している。
子どものせいに、しない。
職員のせいに、しない。
親のせいに、しない。
地域の方のせいに、しない。
つまり、誰も、責めない。
ここが、木村先生の、たった一つ、スペシャルの(ように見える、思える)点だ。
木村先生は、事件が起きたら、それが悪い、とは思っていない。
悪いことを消去する、という発想とは逆だ。
要らないものを排除しようとする、その発想とは逆だ。
なにが起きても、それが目の前の子どもの姿であり、
それを受け入れるのが当たり前、となっている。
子どもが学校から抜け出そうとする。
木村校長は、それが、悪いこととは思っていない。
そんなことも、当然のように、子どもはするだろう、それが子どもである、と思っている(ようだ)。
だから、担任は、そのことで責められることがない。
また、そのことで、担任を責める親もいない。
学校の対応を責める、地域の方もいない・・・。
つまり、この学校は、関係者を、だれも責めない。
こんなこと、あるのか?
「いや、これは、スペシャルですよ。木村泰子先生だから、できたこと。ふつうは無理です」
そう思うかどうか。
スペシャルかどうか。
「責めない」は、だれもできないことか。
それとも。
「責めない」は、一番ふつうの、もっとも人間的な感性である。
だれもが楽な、もっとも普遍的な姿である。
ふだん、私たちは、「人は相手を責めるのが当たり前」と、思い込まされていないか・・・。
映画「みんなの学校」。
有名な映画だ。
見た人の間では、すでに語り尽くされているのかもしれない。
みんな、この学校の映画を見て、どう感じたのだろう。
「責めない」は、スペシャルなことなのかどうか。
だれもが、ふつうにとれる、立てるスタンスなのかどうか。
あるいは、特別人間が、特別に学習したうえで、ようやく実現する態度なのか?
壊れやすい、もろい、すぐに消えさえってしまうような。
がんばって、がんばって、頑張らないと、実現できないような。
そんな心の状態なのだろうか?「責めない」とは?
いや、木村先生は、ちがう、と言うだろう。
私は勝手に、そう思う。
「あんた、責めるって、なんなのよ。そんなエライしんどくなるようなこと、ほんまにしようと思てんのか?あほちゃうか。責めるって、どんだけアホなことか、骨の髄まで沁みてるから、そんなことようせえへんわ。責めて叱って、なにが得やねん。責めるんちゃう。伝えるんや。これがいちばん、人間が幸せになる、まっとうな道なんやで。責めて何とかしようなんてのは、伝えるのをさぼった、いちばんの手抜きや」
これ、↑ 勝手にわたしが、木村先生なら言うんじゃないか、と思ったセリフ。
人間の心がいちばん楽なのが、「責めない」。
責めて脅して動かそうというのがいちばんの手抜きで、いちばん苦しい。
責めないで、とことん関わるのが、いちばんの手ごたえで、いちばん楽(らく)。
相手を責めたくなる自分。
責めたくて、責めたくて、苦しくなっている自分。
責めようとすると、自分がいちばん苦しくなる不思議。
人間の精神構造は、どうしてこのようにできているのだろう?
いろんなことを思う、映画だった。