叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

表現される中身と、表現されて目に見えるもの

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国語で宮沢賢治の「やまなし」を教えたことがある。

都合、2年間教えた。
1年目と2年目で、あれこれと指導法を変え、試してみた。

1年目は、「やまなし」の文章を何度も読み込んだ。
音読をしまくった。
そして、表現の一字一句、微細な部分までを検討し、「深読み」させた。

2年目は、本文に入る前に宮沢賢治の人物伝をさまざま読んだ。
音読はあまりせず、さらっと「やまなし」を読んだ。

どちらも、4,5時間の授業の後に、賢治の他の作品を読ませて、自分なりの解説文を書かせた。


さて、予想してみてください。
1年目と2年目、どちらが良く解説文を書いていたと思いますか?



同じ地域の、連続した2年間です。
子どもはほとんど同じような雰囲気で、どちらも落ち着いて過ごす子たちでした。
地域性やその他の学習習得事項がほぼ似通っているため、比較がしやすかったと思われます。


これ、2年目の方が、「やまなし」をぐんぐん深く読んで、討論が盛り上がったのです。
なぜだろう?

1年目は、「書いた人」よりも「作品」に焦点があたっていた。
2年目は、「作品」よりも「書いた人」に焦点があたっていた。

1年目は、微細なところに迷い込み過ぎた、という感じがあります。
ところが2年目は、純粋に
「賢治はなにを伝えたかったのだろうか」
ということが、子どもたちの関心の『芯』になっていた気がする。

作品は、作者が表そうとしたもの。作品を通して、作者が思いをぶつけたもの。
そう考えると、「作品」を理解する、というのか、「作者」を理解する、というのか、そこらへんのちょっとした違いがあったのかもしれない。

学習の入り口にあたるところで、「作品」か「作者」か、隣り合った扉の、どちらを開いたか。
子どもたちには、その差があったのではないか?

「作者」という入り口から、学習をはじめた子は、他の作品にも、「賢治の意識の片りん」を見ようとしていた。



これを経験してから、子どもたちが学習する学習内容には、2通りあると思うようになった。

1 あらわれたもの→どう表現されているか
2 こめられた思い→なにを伝えようとしたか

そして、成績が良いのは、2に重点をおいて学習をした方だ。
これが、なぞだ。
わたしは、これまで、1をとことん吟味することが、学習の能率があがり、核心に迫ることだと思っていたから。



で、同じようなことを、国語の他の教材についても、感じたことを思い出した。

3年生で、説明文「自然のかくし絵」、という単元を学ぶ。
自然のかくし絵、というのは、昆虫の擬態の話であります。

しゃくとり虫は、木の枝に止まってじっとしていると、まるでそこに本物の枝があるように見える。これは、鳥に食べられないように役立っている擬態だ。
また、緑色のかまきりは、草や葉の中にまぎれてじっとしていると、どこにいるのか分からなくなる。これは、えものをとるために役立っている擬態だ。
3年生はこの説明文を通して、文章の構成には、「はじめ」―「なか」―「おわり」という3つの『まとまり』があることを学ぶ。

この説明文を授業するとき、わたしは思った。
「ようし、この単元は、クラス全員、テストの点数を100点にしてやろう」

そこで、文章の構成のしかたについて、「はじめ」―「なか」―「おわり」という3つの段階がある、ということを一生懸命に教えました。いくとおりかの説明文を示し、ほうら、どれも3つに分かれているでしょう、と教えた。3つに分ける訓練もした。文章を一文ごとにバラバラにして、構成に注意しながら再構成する訓練もした。

徹底的にやって、平均点を出すと、82,3点くらいだったと思う。

わたしは、愕然としたのです。
なぜかというと、この単元を、わたしは教師になりたての2年目に授業で教えているからです。
そのとき、単元の平均点は90点を超えていた。
今回は、それ以上いくだろう、と思っていたのにダメだったから。


わたしは2年目の新米教員のとき、ずいぶんいい加減な授業をしたので、自分でも覚えていたのです。
「はじめ」―「なか」―「おわり」という3つの段階があることについては、さらっとしか教えなかった。
そのかわり、わたしは自分が面白かったので、昆虫の擬態の写真ばかりを、子どもたちに見せ、いっしょになって喜んでいたのです。
「すごいねえ、こん虫ってかくれんぼの名人だ!」
といって、すごいすごい、と授業時間を消費してしまい、あわててテストをしたのです。
そして、みんなよくできて、90点以上だったのは、「ああ、テストが簡単なせいだ」と思ったのです。

ツマキシャチホコ


そのことを覚えていて、多少教員としての授業の自覚がでてきた6年目のときは、心を入れ替えて教えたのです。授業書を読み、解説を学んで、単元のねらいに沿って、目当てをもち、きちんと文章構成について、教えるべきことを教えたのです。

それでも、2年目のぐたぐたの授業に負けた。


1 あらわれたもの→どう表現されているか
2 こめられた思い→なにを伝えようとしたか

という例でいえば、2年目の新米教師のとき、わたしは

「擬態」とはなにか、虫はなぜ擬態をし、擬態をすることでどのように生き延びようとしているのか、ということを、擬態の写真をたっくさーん見ることで、子どもと話し合い、学んでいたのだ。

6年目の時は、1の国語・文章技法ばかり学習させていたのだネ。
それで、肝心の「擬態」とはなにか、ということがおろそかになっていた。
子どもたちに、「文章構成ってこんなものだ」という、間違った悪自信をつけさせていた。内容理解よりも文章テクニックだけを教えてしまったのだ。



表現される中身と、表現されて目に見えるもの。
どちらに重点をおいているか。

これが、国語の授業についても、大きな変化をもたらすのだ、ということ。


おもしろいねえ・・・。