人間の良さ、をどう表現するか
.
世の中一般に、『黒い黒熊』、などという言い方は、あまりしない。
黒いのが当たり前だから、あえてそんな修飾語を使わないのである。
もし、白い黒熊がいるのだとしたら、あえて黒い黒熊、というときがあるかもしれないが。
(・・・と、ここまで書いて、あっ、白い黒熊って、パンダのことだ!・・・と気づいた)
さて、
同様に、「のろいカメ」とは、だれも呼ばない。
亀はのろい、というのが人間の共通理解であり、前提だから。
もしも、けっこうなスピードでガンガンと走るような亀がいたら、人間はおどろいて、
「これは、速いカメだ」
と、修飾語でおぎなって呼ぶほかなくなるけれど。
同じように、わざわざ「狡い政治家」、「明るい卓球青年」とは、言うことはない。
「政治家」というと、今はなんだかとても、〇〇〇なイメージになってしまっているから、ごくごくふつうの、しっかりした政治家に出会うと驚いて、
「なんとも誠実な政治家がいたものだ」
という少々の感動を覚えながら、
「彼は誠実な政治家だ」
と、言葉を足して、言うほかなくなる。
だから、その言い方は、社会の中で許容されるのである。
(逆に言えば、ずるい政治家、という言葉は、当り前でくどいからか、なかなか使われない)
さらに、卓球青年は昔とちがって、今はとても明るいのがふつうになってきている。
オリンピックの影響が大きいかもしれない。
わたしが、タモリの真似をして
「卓球は暗い」
というようなイメージでかまえていると、現代の子どもたちはまったくそんなことを思っていないことに気付き、元卓球部で自虐的なわたしは、少々恥じることになる。
したがって、いまどきは、
「卓球青年」は明るいのが当然なのだから、
あえて、『明るい』卓球青年、とは言わないのが当然なのである。
さて、話がもどってきた。
黒い黒熊
のろいカメ
狡い政治家
明るい卓球青年
もし、あえて、わざわざ、このように言うことがあれば、
それは、その人間の無意識の価値観を照らし出しているのである。
言葉になにか、自分が無意識にくっつけている『修飾語』をよく見てみてると、
自分が、なにを前提にしているのか
が、みえてくる。
わたしは先日、子どもに対して、
いい子
と言ってしまった。
子どもは、いい、に決まっているのだから、わざわざ 『いい』 なんて、言わなくてもいい。
そのことは分かっているのだけど、他に、言い方が見つからない、というところに、現代教育の悲しみ、親子関係のゆがみ、苦しみ、おかしさ、未熟さ、ということが詰まっているように思う。
逆に言えば、
いい子
というのを、もっと別の言葉で、べつのニュアンスで、べつのやり方で、べつの雰囲気で、べつのアプローチで、べつのメンタルで、
言うことができれば、それはもう、本当に人間の認知の、社会全体の、大革命につながると思う。
世の中一般に、『黒い黒熊』、などという言い方は、あまりしない。
黒いのが当たり前だから、あえてそんな修飾語を使わないのである。
もし、白い黒熊がいるのだとしたら、あえて黒い黒熊、というときがあるかもしれないが。
(・・・と、ここまで書いて、あっ、白い黒熊って、パンダのことだ!・・・と気づいた)
さて、
同様に、「のろいカメ」とは、だれも呼ばない。
亀はのろい、というのが人間の共通理解であり、前提だから。
もしも、けっこうなスピードでガンガンと走るような亀がいたら、人間はおどろいて、
「これは、速いカメだ」
と、修飾語でおぎなって呼ぶほかなくなるけれど。
同じように、わざわざ「狡い政治家」、「明るい卓球青年」とは、言うことはない。
「政治家」というと、今はなんだかとても、〇〇〇なイメージになってしまっているから、ごくごくふつうの、しっかりした政治家に出会うと驚いて、
「なんとも誠実な政治家がいたものだ」
という少々の感動を覚えながら、
「彼は誠実な政治家だ」
と、言葉を足して、言うほかなくなる。
だから、その言い方は、社会の中で許容されるのである。
(逆に言えば、ずるい政治家、という言葉は、当り前でくどいからか、なかなか使われない)
さらに、卓球青年は昔とちがって、今はとても明るいのがふつうになってきている。
オリンピックの影響が大きいかもしれない。
わたしが、タモリの真似をして
「卓球は暗い」
というようなイメージでかまえていると、現代の子どもたちはまったくそんなことを思っていないことに気付き、元卓球部で自虐的なわたしは、少々恥じることになる。
したがって、いまどきは、
「卓球青年」は明るいのが当然なのだから、
あえて、『明るい』卓球青年、とは言わないのが当然なのである。
さて、話がもどってきた。
黒い黒熊
のろいカメ
狡い政治家
明るい卓球青年
もし、あえて、わざわざ、このように言うことがあれば、
それは、その人間の無意識の価値観を照らし出しているのである。
言葉になにか、自分が無意識にくっつけている『修飾語』をよく見てみてると、
自分が、なにを前提にしているのか
が、みえてくる。
わたしは先日、子どもに対して、
いい子
と言ってしまった。
子どもは、いい、に決まっているのだから、わざわざ 『いい』 なんて、言わなくてもいい。
そのことは分かっているのだけど、他に、言い方が見つからない、というところに、現代教育の悲しみ、親子関係のゆがみ、苦しみ、おかしさ、未熟さ、ということが詰まっているように思う。
逆に言えば、
いい子
というのを、もっと別の言葉で、べつのニュアンスで、べつのやり方で、べつの雰囲気で、べつのアプローチで、べつのメンタルで、
言うことができれば、それはもう、本当に人間の認知の、社会全体の、大革命につながると思う。