叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

これからの道徳の授業は、『自分をみる』

『普通に生きていても
人の言葉や行動で
理不尽なことってたくさんあって

そのたびにしばらくそのことで
頭がいっぱいになったり
色々なことが手につかなくなったりする

どうしてあんなことするんだろう?
なんであんなにひどいことを言うんだろう?
自分が何をしたのだろう?

いくら考えてもきりがないし
空回りだ。』

https://feely.jp/42323/




けっこう、子どもの日記にも、同じニュアンスの内容を発見することがある。
これって、これからの新しい道徳の授業の中の、いちばん大切なところだろう、と思う。
子どもの切実さ、必要性が、そこにあるのだからネ。


高学年となると、抽象的な概念を、語ることができるようになってくる。

幸福 とか 理不尽 とか、こころ とか。


そこが面白い。

『どうしてあんなことするんだろう?
なんであんなにひどいことを言うんだろう?
自分が何をしたのだろう?』


ここでいう、『あんなこと』 って、なんだろう。

あんな

の中に

なにを見ているか。


あんなこと!!

理不尽な!!

決して許せない!!

不都合きわまる!!

気に入らねえ!!

あんなこと!!!

わたしはアンタを、ぜったいに許さねえからなっ!!!



こういう感じかな。

オブラートに包んでいるし、やさしく書いているし、そこまでイキリタッテないよ!
ということかもしれないけれど、
こころの内情は、こんな感じだろうか。
相手の態度が気に入らなくて、相手に非がある、と決めてかかって、相手を責めようというものが元。



なんで腹が立つのか



これ、6年生で考えていますが、面白くてならない。

最初は、腹が立つことの正当性を、これでもか、とみんなに話す。

しかし、クラスメートがその正当性を、訴えれば訴えるほどに、

「??なんで、それで腹が立つかな・・・」

という感じが、空気として、じわじわと教室に出てくる。

そして、

「腹立ててもべつにいいけど、結局、なにがしたいの?」

と、そのひとのやろうとするところ、あろうとするものを、問おうとする仲間が出てくる。

「いや、だから、〇〇じゃなくて、△△がしてほしかったんだわ」

「あー、なるほど、△△してほしかったのか。・・・・で、それはそうと・・・」

という感じ。



このやりとりが、教室中が、不思議なオーラに包まれて、なんともゆるーく進んでいく。

進んでるのか、わからないくらい、ユックリと。

zazen_man