叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

「叱らないで済んだ」という、ひとつの結果

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面白いもので、次のステージに進む、と決めてから、いろいろと思うことが多くなった。

まずは、タイトルを変更してみた。

きっかけは、若い院生からのメールで、教育学部の彼女からもらったメールには、

「自分も新間先生のように、叱らないでやっていきたい」

と書いてあったこと。

なるほど、こういう読者もいるのか、と驚いた。



若い人も見ているのなら、と思うと、彼らを応援したい気持ちが湧いてきて、

さっそくブログのタイトルを変更し、

「叱らないでも いいですか」

という従来のタイトルを、

「叱らないでも だいじょうぶ」


と変えた。



ところが、その後、なんだか急速に叱るとか叱らないとか、どうでもよくなってきてしまった。

これは、ただの、ある取り組みの、一つの結果に過ぎないですもん。

「あることに取り組んでいたら、叱らずにすみました」

田舎の小さな学級での、「叱らないで済んだ」という、ひとつの結果というだけで。




また、そもそも、このブログはだれかのために書いているわけじゃないし、という思いが強まってきた。

自分の中にある、「人間存在の面白味」というものを、ただ遊びのように書いているだけ。

目的がしっかりあって、書いているわけではない。

だから、急に

「若い人を応援するために」

とやってみたら、妙に居心地がわるく、しっくりこない。

結局、2日ばかりで、タイトルも再度変えてしまった。

現在のタイトルは、「困らないけど、いいですか」 である。

だれが困らないかというと、このわたしのことである。

子どものことで困ったり心配したり不安に思うことができないわたし。

かつてわたしは、教師とは子どものことで困ったり心配することが宿命づけられているものだ、と思っていた。

そういう過去の教師像(わたしがかってに想像していたもの)と、自分はどうも一致しない。

こんな調子で、いいのだろうか。

新しいタイトル、『困らないけど、いいですか』は、そうした気持ちから、つけている。



このように、タイトルが変わっていくのは、他の人にとってはどうでもいい話であろう。

わたしの中にある、とんでもなく字面にしにくい「あるもの」を、なんとか表現しようとするのは、結局は個人の趣味なんだろうネ。

われにかえる1