叱らないでも いいですか

「叱らないで、子どもに伝える・通じ合う」 小学校教師、『新間草海』の本音トークです。

中年の矜持とは

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わたしには、2人の姉がいる。

その2人の姉と、父のアトリエを片付けることになった。

父は体の具合が悪く、もう絵を描くことができない。

そこで母が号令をだし、このゴールデンウイークに一気に片づけろ、となった。


わたしが家につくと、もう足の踏み場がないくらいに、そこら中にものが置いてある。

2人の姉は作業着のようなものに着替えており、せっせと札を貼ったり箱に絵をしまったり、とせっかちに動いている。

わたしも到着早々に、まったく整理されていない蔵書とキャンバスをあれこれ片づける羽目になった。



ところが、74歳の母と50歳の姉は、すぐにくたびれるのである。

「休憩する」

と言って、すわってばかり。

しまいには、口は出すけど手は出さない、という体で、

「ほれ、あそこがまだしまえてない」

だとか、

「そら、箱に番号を書かなきゃ。忘れないでよ」

とか、指示命令ばかりがとんでくるようになった。

わたしだって、もう、すっかり中年なのである。休憩したい、と思いながらやっているのに・・・。




夜になって久しぶりに、母の料理を食べ、家族で話をしているのは面白かった。

話の中心になったのは、まさかこんな年になるとは思わなかった、ということで、

「お姉ちゃんが50ねえ・・・。信じられないわ」

「あんただって。ずいぶんおっさんになった」

つい先日、ぎっくり腰になった話と、湿疹ができた話、なんともさえない話ばかりで・・・。



母の話は、幼いときの苦労話になる。

家にお風呂が無く、ご近所に借りに行く。

またそういう時代だったから、どこにでも風呂があるわけでない。近所の人も、お湯を沸かすと

「今日は湯がありますから、どうぞ」

と、わざわざ知らせに来てくれていたそうである。

兄弟が多かったから、みんなで行くのはとても気が引けた、という。

みんなが湯から上がると、結構なお湯でした。ごちそうさまでした、と言って、帰って行ったらしい。

「へえ、お風呂も、ご馳走さまって言うの」

姉が、母の話に感心している。


軍国少年だった父や、戦時中に生まれた母は、戦争というものをリアルに感じて生きてきた。

そして、その暗黒の戦争から急速に解き放たれた。

ふたつの時代、国家の仕組み、価値観の大きな変革を、見ながら育った。

物事を、単純にとらえていてはいけないという、鳥瞰的な視点をもっている世代だ。



われわれのような中年は、時代から何を受け取ったのか。

生まれると、未来が夢のように語られる時代だった。

戦争はもうすっかり過去のものであり、世界中が子どもにあふれ、ドラえもんが2100年の世界を見せてくれていた。

だれもが幸福になれる、夢をみろ、夢を実現させるのが最高だ、と言われてきた時代。

しかし、待てよ。

拝金主義も万能ではなく、バブルははじけ、原発もはじけ飛んだ。

「たしかに、夢がある、と聞いてきたのに・・・」

青い鳥だと思ったものは、やはり青くないまま。時代から言い聞かされてきたことは、どんどんかすみ、色あせていくことばかりだ。



いつか、父が寺の縁の下の蟻の話をしてくれた。

父は、寺の本堂で終戦のラジオを聞いた。

大人は口々に意見を言ったり、泣いたり、慌てたりしていたが、和尚がおりてきて、本堂の下を指さし、

「戦争が始まっても、終わっても、蟻はずっとここです」

と言ったそうだ。

その意味が長い間分からなかったが、中年を過ぎて定年間近となったころ、ふと思い出したそうな。

人間が右往左往し、苦労してる間、蟻は何も変わらず堂々と、生きつづけていた。



われわれは、あれこれと己の求めるものを吟味したり批評したり、時代の意味を考えたりと忙しく追及するが、中年になったころにようやっと、家で飼ってる鳥はもともと青かった、ということになるようだ。

これは、あとから、そういうことになった、ということなんだろうネ。

最初から青かったわけでなく、ね。

つまり、「青」を見ることのできる、自分の視点、自分の目線を確立するのに、ずいぶん時間がかかるというわけ。

それにしても、姉ちゃん、50年は長過ぎるワ。

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